旅の10日目。八幡浜駅前のビジネスホテルを発って、最初に向かったのは宇和町。
目的はこの建物。
ぱっと見には村の公民館にしか見えない。たしかに現在は公民館として使われているが、この建物の正体はもと稚蚕共同飼育所なのである。
私はこれまで群馬県を中心に200ヶ所ほどの稚蚕飼育所を紹介してきた。だがこれはいままでに紹介していないタイプの飼育所なのだ。
この飼育所の特徴は非常に古い形式だということ。私が群馬で紹介してきた稚蚕飼育所は戦後の昭和24年ごろに発明された土室育というタイプの施設が多いのだが、実は稚蚕飼育所は昭和ヒトケタにはすでに存在していた。戦前の稚蚕飼育所はそもそも数が少なかったので、現在確認できる遺構も少ない。
ここ西山田稚蚕共同飼育所は、昭和11年にできたと言われていて、戦前の飼育所の様子を伺い知ることのできる貴重な実例なのである。
建物は2棟からなり、飼育所棟と倉庫。間は渡り廊下で結ばれている。
現在の渡り廊下は重量鉄骨の近代的な車寄せだが、土蔵の壁の日焼けの跡を見ると以前からここに屋根があったことがわかる。
ここで働いたことがあるという90歳代のおばあちゃんに話を聞くことができたのだが、この土蔵には蚕を飼育する箱などをしまっていたという。
飼育場長の宿直室かとも思ったが、話では場長は通いで、当時珍しかった自転車で通勤していたそうだ。加温のために火を使うときはときどき家から見に来ていたのではないかとのこと。
この飼育所の他にはない特徴は、村の公会堂を兼ねた構造になっていることだ。写真は建物の南面だが、左側から掃き出し窓が並んでいる部分が飼育室、高窓だけがある部分は床の間のある会議室になっている。
稚蚕飼育所に不特定多数の人間が出入りするのは防疫上好ましくないので、当初からそのような設計だったかは疑ったほうがいいが、実際、会議室部分も古い。
そのさらに右側には調理室が増築されている。これはあきらかに最近のもの。
婦人会や例祭などで使用するのだろう。
建物の北面は外装が下見板で、当初のままの姿をとどめている。
さて、建物の中の説明に入るまえに、戦前の稚蚕飼育所がどのようなものだったのかを資料で紹介したい。戦前の飼育所については『󠄁稚蠶共同飼育所ニ關スル調査(農林省蠶絲局)』に多くの実例が掲載されている。そのうちで、この西山田稚蚕共同飼育所に近いものとして鹿児島県の実例がある。
まず外観だが、戦後に字ごとに造られた土室育形式の飼育所に比べて豪華でコストもかかっていることがわかる。
平面はこのようになっている。特徴は室内全体を加温する大部屋方式であることで、保温と防疫のために飼育室の前後に廊下を設けていることだ。
この例では飼育室の三方に廊下があるが、他の例では四方が廊下になっているものも多い。
これらは最初の稚蚕共同飼育所であるため、他と区別するための「○○式」といった呼び方はないが、私はこれを「回廊型飼育所」あるいは「戦前型飼育所」と呼んでいる。
きょうはたまたま町内会の総会が行なわれていたため中を見せてもらえた。
玄関から入って最初の部屋から奥をみたところだ。戸板がある部分が飼育室、その両側が廊下になっていることがわかる。
こちらが南側の廊下。
これを見て、養蚕史に詳しい人ならば、埼玉県にある競進社模範蚕室(明治27年)をすぐに思い浮かべるであろう。
実際、この間取りは競進社模範蚕室と非常に共通点が多い。おそらく戦前の稚蚕飼育所は農林省から設計のテンプレートが示され、その補助のもとで全国に普及したと思われる。その際、参考にされたのが競進社の蚕室だったのではないだろうか。
こちらは北側の廊下。
人が蚕具を持って移動するのには狭いので、移動するための通路ではなく、外界と飼育室のあいだに空気層をおくための空間なのだろう。
玄関を入って1部屋目は廊下がなく、建物の間口と同じ広い部屋になっている。
先の鹿児島の飼育所の平面図では「事務室」と書かれている部屋に相当するが、この飼育所ではここは挫桑室だったと思われる。
桑の葉を、稚蚕が食べやすいように刻むための作業部屋だ。
玄関を入ってすぐ左側の床。
パイプ椅子が積んである下に切れ込みがあるのが見えるだろうか。
これは地下室の貯桑場への階段の入口だと思われる。地下は涼しいため桑の葉を備蓄するのに都合がいいのだ。
建物の外周の南面には地下室への入口の跡もある。
畑から摘んできた桑の葉を、ここから地下室へ直接搬入できたのだ。この飼育所では地下貯桑室のことを「桑壺」と呼んでいたそうだ。
続いて、飼育室を見てみる。
現在、飼育室は3部屋分がぶち抜きで大広間になっているが、天井部分に小壁が残っているので、もともと3室だったことがわかる。
奥に欄間と襖戸が見えるが、その奥には床の間のある元々の会議室がある。(会議中だったので写真を撮れなかった)
南側の廊下の束には飼育所だったころの名残の部屋名がいまも残っている。
飼育室から挫桑室方向を見たところ。おそらく飼育室だったときにはすべての部屋がこのような桟戸で仕切られていたと思われる。
床は当初は板敷きだったろう。働いていた人の話では、各部屋ごとに床の中央に炉があり、室内を暖めていたという。
飼育方法は棚に差した箱飼いで、棚は天井に達していたという。給桑のために高いところの箱を取り出すのは男性の仕事だったそうだ。
天井には換気口の跡と思われるものが両端に1ヶ所づつある。写真の掛け時計の上の部分である。
ということは、おそらく屋根の上にも部屋ごとに換気塔が突き出ていたと思われるが現在は桟瓦が葺き替えられていて痕跡はわからない。
壁には「三瓶神社 璽」と書かれた氏神様の護符が貼られていた。
東側の増築された部分。
旧来の建物とのあいだに廊下が加えられ、きれいな調理場がある。
写真左の壁が、旧来の建物の外壁だ。
改めて、旧態を残している北側の壁面を細かく見てみる。
1部屋ごとにガラリ板の換気口と煙突が備えられている。
ガラリ板はおそらく北廊下につながっていて、通気に使われているのだと思う。
煙突は、各部屋の床の中央にあった囲炉裏状の炉につながっていたのだろう。
もしかするとオンドルだったかもしれない。これについてはおばあちゃんに聞いたのだが、記憶がはっきりしないようだった。
戦前型の飼育所は、現時点でサイトでは紹介していない物件がいくつかあるのだが、いずれも中を見ることができていない。
この西山田稚蚕共同飼育所は現在も公会堂としてきれいに使われているのですぐ取り壊される可能性も低く、内部も見ることができるという点で貴重だ。もしかすると、中が見える戦前の稚蚕共同飼育所としては日本で唯一の存在かもしれない。
(2012年03月27日訪問)