前回、児玉町を訪れてから1ヶ月後の5月6日、再び稚蚕飼育所の調査に来ている。6日はGW開けの最初のひら日であり、春蚕の掃き立ての準備のために飼育所に担当者がいるであろう日を狙っての訪問である。
今年は6日が金曜日なので、有給休暇をとって8日までを連休としていた。稚蚕飼育所のためにわざわざ徳島から来ているのだ。
朝イチで飼育所に行ったのだが、担当者が見当たらなかったので時間を置くことにして、児玉町の市街地のほうへ来てみた。
児玉町には競進社模範蚕室という、有名な養蚕の建物が残っている。
稚蚕飼育所を見る前に比較対象として先に参考として明治時代の蚕室を見ようと訪れてみたのだが、連休明けのためか閉まっていた。
後日、改めて訪問したときにはかなり整備も進んでいたので、そのときの写真をもとに紹介しよう。
競進社とは明治時代に埼玉県にあった養蚕の指導所で、創始者は高山長五郎の実弟、木村
一派温暖育は、室内に火鉢など置き、上昇気流を用いて蚕室内の空気を天窓から排出するというものだった。当時は蚕病が微生物によるものだということがはっきりと解っていなかったが、排気することで室内の湿気を取り除き、衛生的にしようとしたのだろう。
文化財の案内板によるとこの模範蚕室が建てられたのは明治27年ということなので、そのころには屋根にヤグラを載せて換気するというタイプの蚕室はすでに北関東では普及していた。したがって、屋根の気抜きについてはこの蚕室によって最初に提示されたものではない。
どちらかといえば競進社で長年さまざまな研究を重ねた結果の集大成といった建物なのだろう。
案内板には書かれていないのだが、この模範蚕室の建物の最大の特徴は蚕室の四方を廊下で囲んでいることだ。この回廊のような構造は明治時代の一般的な養蚕農家の蚕室には見られないものだ。私もあまりたくさんの養蚕農家を見たわけではないが、このように外周に廊下を持つ建物はほとんど思い出せない。これは木村九蔵がイタリアを視察したときに見た蚕室をもとに考案したものだともいう。
外廊下式の建物を見て思い浮かぶのは一般的な養蚕農家ではなく、戦前に考案された稚蚕共同飼育所の設計だ。戦前の稚蚕飼育所の図面はいくつも残っているが、その特徴は蚕室の前後に廊下を設けているということである。また、長野式や埼玉式といった戦後に考案された稚蚕飼育所の構造もこれを応用したものだと考えられる。そういう点で、この競進社模範蚕室は農家の蚕室の手本というよりも、国が推進した稚蚕共同飼育の設計の見本となったのではないかと私は考えている。
中を見てみよう。
これは南側の廊下。右側には飼育室が4部屋続いている。廊下と飼育室の間は引き違い戸で、取り外しが可能。各飼育室との間も引き違い戸だ。
これは養蚕農家の蚕室というより、種屋やその分場農家といった蚕種業での飼育室を思わせる。
飼育室の様子。
中央に炉が3つ並んでいて、中には火鉢が置かれた。
この火鉢で上昇気流をつくり、天井から室内の空気を排出した。現代であれば、電気式の換気扇などで換気できるが、当時は電気扇風機がなかったのでこうするしかなかったのだろう。
もちろん、春蚕の飼育期間は夜間に冷え込むから、特に稚蚕期間には部屋を暖めることも必要だった。
このように両側に蚕棚を立てて、給餌のときだけ1枚ずつ蚕箔を取り出して飼育する方法を「棚飼い」という。
また、このような薄い蚕箔で飼育する方法を「平面育」ともいう。箱の中で飼う「箱飼い」に対照する言葉である。
藁蔟が置かれているが、これは時代的には合っていないのではないか。
2階が見られるようになっている。
2階はひと続きの部屋になっていた。
使い方は書かれていなかったが、5齢期の飼育に使ったのではないかと思う。5齢の蚕は成長して大きくなるので、飼育面積も広く必要だ。そのための空間ではないかと思うが、そうだとすると餌である桑の運び込みや食べ残し蚕糞などの運び出しのための開口が少なく、かなり使いにくかったのではないかと思う。
1階は競進社の歴史や養蚕の一般的な資料館になっている。
左から、挫桑機、毛羽取り機、繭かき棒。
このへんはすべて大正以降のものだろう。
円形蔟というめずらしい
インドやタイなどの南アジアでよく見られるタイプのものだ。
とりあえずこうした競進社の蚕室の構造をふまえ、次の稚蚕飼育所の建物について見ていきたい。
(2011年05月06日訪問)