
悪戸石仏群から見て都幾川の対岸、
「押垂」っていう地名、これはおそらく「堤防が切れる場所」というような意味だよね?
集落は自然堤防上で周囲の水田より2mくらいは高いとはいえ、むかしの人はよくここに村を作ったものだ。氾濫するといっても10年に1度くらいで、普段は水が得やすく、氾濫時に流れてくる沃土で田畑の収量がよくなるメリットのほうが大きいと考えたのだろうか。

集落のはずれに
堤防が切れて、勢いよく流れ込む水のため土地が深くえぐれて沼になってしまう地形だ。

押堀の名前を「九頭龍沼」という。
岸辺に九頭龍権現の石塔があるので、いつのまにかそう呼ばれるようになったのだろう。
石碑を建立した年号は明治43年9月21日となっている。

この場所を明治初期の地図で見ると、まだ沼ができていない。
この沼ができたのは、推定だけど明治40年の都幾川の氾濫時だったのではないか。明治43年8月にも大水害が起きたが、そのときは埼玉県の平野部がほとんど被害を受けたほどの激甚災害だったので建碑している場合ではなかっただろうと思う。

九頭龍沼は現在はヘラブナの管理釣り場になっている。

沼の外周の半分以上に常設の桟橋がある。

駐車場は沼の周りに10台弱。
休日で車がいっぱいだった。
(2025年09月07日訪問)