吉見領大囲堤

■吉見領大囲堤■

(埼玉県吉見町荒子)

これから吉見町(よしみまち)について見ていく。

以前に紹介した川島町(かわじままち)が外周を堤防に囲まれた輪中(わじゅう)のような土地であり、外周の堤防のことを大囲堤と(おおがこいづつみ)呼ぶことについて触れた。荒川水系にはもうひとつ大囲堤がある。吉見町のほぼ全体を占める「吉見領大囲堤」だ。

川島領大囲堤が河川堤防で成立しているのに対して、吉見領大囲堤は河川堤防だけでなく、平野内にも水害対策の堤防が築かれていて、見るべきところが多い。そこで吉見町内を細かく見ていく前に、まず大囲堤について概観してみる。

写真

写真はGoogleMapsによる吉見町の航空写真である。点線が大囲堤だ。①~⑨の範囲に途切れなく堤防が続いている。写真左側には堤防がない区間があるがそこは吉見丘陵と呼ばれる高台なので堤防は不要だ。

吉見町は広い平野部を持つが、常に水害と隣り合わせだった。大囲堤の内部の集落配置を見ると、蛇のようにうねった微高地の上に家々が並んでいるのが見てとれる。これは過去に和田吉野川や市野川が流れた跡の自然堤防だ。つまりもし河川堤防がなければ吉見町内を川が流れてもおかしくないという地勢なのである。

すでに何度か書いているが、江戸時代初期に荒川の流路変更工事が行なわれた。それまで大宮台地の東側に流れて利根川に合流していた荒川を西側に移動して、入間川に合流するようにしたのだ。これを「荒川の瀬替え」という。瀬替えの以前から吉見町は洪水が多い地域だったのが、和田吉野川が荒川の水量を受け入れたためさらに洪水の頻度が高まった。そこで集落や耕地を守るために大囲堤が作られたのである。しかし、ひとつの地域が堤防を高くすると、隣りの地域が浸水しやすくなるといった弊害もあり、吉見領と川島領は何度も争いを繰り返しながら堤防を強化してきた。

吉見領大囲堤は広大なので全体像かわかりにくいが、①~⑨について実地の風景を紹介する。なお、それぞれの場所は4年間にわたって断片的に訪れたのをまとめたので、写真の季節はバラバラ。

写真

①は大囲堤の西端。

以前に永府樋門を紹介したすぐ近くだ。

写真

意外なことに大囲堤の西端は市野川堤防ではなく、横見川という川の縁に築かれている。もともと市野川は大囲堤の西側を蛇行して流れていて大囲堤が市野川の左岸堤防だったのだが、新たな左岸堤防が造られ、市野川は写真左端の狭い河道に押し込められた。昭和のことである。

横見川との合流点あたりはいまでも堤防補強工事の資材置場になっていて、工事現場みたいな雰囲気の場所だ。

写真

大囲堤はそれほど高くない。

この付近では新堤防が強化されているので、大囲堤はそこが氾濫したときのバックアップのような位置づけなのだろう。

堤防が切れたとき、堤内地で浸水を食い止めるためのバックアップの堤防を「控え堤」という。もともとの本堤が控え堤に格下げされた状況だ。

写真

現在は堤防の上を県道が通っている。簡単にはこれ以上かさ上げできないだろう。

現代の土木技術で強化される以前の大囲堤の高さは、もしかしたらこんな感じだったのかもしれない。

写真

②は大囲堤から直角に突き出ている堤防。

写真

荒川には本堤から直角に突き出た横堤という形式の治水施設があるがそれは堤外地に向かって造られるものだ。②は堤内地に向かって伸びている。

これは「縦土堤」という名前の控え堤だ。

大囲堤外周が越流した場合のバックアップである。

写真

現在は堤防上はゴルフ場のクラブハウスへの取り付け道路になっている。

写真

堤防の高さは大囲堤西端のとほぼ同じ。

これが大囲堤の原初のイメージなのではないかと思う。

写真

③区間は大囲堤の南端。

写真

この辺りでは市野川左岸堤防と大囲堤は一体となっている。

写真

現在の技術で高く造られた堤防で市野川は押さえ込まれている。正直、あまり面白い場所ではない。

おそらく江戸期の大囲堤はこの堤防の下に埋もれているのだろう。

写真

この場所には南吉見排水機場がある。

地区の水田の排水や降雨水を市野川に捨てる施設だ。

写真

④~⑥は、大囲堤が河川堤防から独立している区間。

写真

③の区間は大囲堤と市野川左岸堤防が共通しているのだが、④地点で分離する。

④~⑥まで、大囲堤は堤内地に続いていく。つまり、堤防の両側が宅地や農地という状況だ。

写真の地点は吉見領大囲堤のすべての悪水路が集まる川尻ともいえる場所で、吉見排水機場という大きな排水施設がある。

写真

④~⑤のあたり。堤防の両側に家が見える。写真右側のほうが人家が多いが、実は右側が荒川で、大囲堤が守っているのは左側なのだ。。

現在は荒川には特に立派な堤防ができているので、増水しても簡単には右側が冠水することはない。

写真

この区間は堤防上に桜が植えられていて遊歩道とサイクリングロードになっている。

もしこの堤防で荒川高水時の水をせきとめるつもりなら、法面に桜など植えない。ゴミなどが引っかかって破堤の原因になるからだ。

現実問題としてこの区間の堤防は現在では控え堤のようになっている。

写真

⑤地点には陸閘がある。

写真

大囲堤を横切る道はこの写真のように堤防を乗り越えるのが基本だが、大型車両などの通過の便を計り、1ヶ所だけ陸閘になっている。

写真

陸閘(りっこう)とは道路が貫通している箇所で、高水時には堰板を閉じて通行止めにする施設のことだ。

この陸閘については別途ページで詳細に紹介する。

写真

⑥は大囲堤が荒川右岸堤防と一体化する箇所。

写真

荒川右岸堤防との融合地点。

大囲堤独自部分は桜並木だが、荒川右岸堤防の法面はきれいに草が刈られている。

写真

⑦は「大工町堤」という名前の控え堤。

写真

高さ1mほどしかない目立たない堤防なのだが、私が堤防に興味を持つきっかけになった物件。

あるとき別の目的地に向かう途中で、偶然この堤防の上を走って「あれ? これ堤防だよね? こんな場所になぜ?」と疑問を持ち、控え堤という堤防の存在を知ったのだった。

写真

おそらく江戸時代初期に造られた大囲堤は、今の荒川右岸堤防のような壮大なものではなく、現代の基準で見たら貧弱なものだったろう。和田吉野川で見た旧堤防長楽堤の上流部もこんな感じだった。

こうした古い堤防の痕跡を見られるところが吉見領大囲堤の面白いところだと思う。

堤防の上流側には悪水路があり、荒川右岸堤防に悪水を寄せていく。もしこの地域が冠水したときも荒川側に水を集めるのだろう。

写真

荒川右岸堤防に沿って文覚川という排水路があり、最終的に吉見排水機場から市野川に捨てられる。

写真

⑧は「横手堤」という名前の控え堤。

写真

以前に紹介した中の淵という押堀(おっぽり)のすぐ北側になる。

堤防の上には県道307号線が通っている。県道を走っているかぎりでは、堤防に沿った川もないし、田んぼの中のかさ上げされたバイパス道という感じで、堤防というのがわかりにくい。

だがこの堤防は荒川と吉見丘陵のあいだの約1kmを完全につないでいて、大囲堤の北側の防御の(かなめ)なのだ。堤防の北側は人家がない遊水地のような場所で、豊廼(とよだい)排水機場という大きな排水機場があって、上流で発生した水害が下流に及ばないようにしている。

写真

GoogleMapsで吉見町の自治体の境界線を表示してみると、大里町(現熊谷市)の中に横手堤の場所だけが吉見町の飛び地になっている。

もともとこの堤防は現在の吉見町の境界に造ろうとしたが、予定地北側の集落が堤外地になることに反対したため、大里町内に築かれたのだといわれている。その際、築堤した吉見町側の管理となり現在の飛び地になった。

写真

横手堤は上流で発生した水害の水が吉見領に入らないように機能する。しかし大里町側からすればこの堤防のせいで水が流下せず町内にとどまるというこであった。そのため長い間大里郡側と比企郡側の争いのもととなってきた。越辺川の小沼控え堤と同じだ。

明治時代初期の地図を見るといくつも押堀があるので、横手堤が破堤することも度々あったのだろう。もしかしたら意図的に破堤させたこともあったかもしれない。

写真

明治時代の地図で押堀があるカーブは、現在でも堤防の膨らみとして痕跡が残っている。

写真

⑨は「相上(あいあげ)堤」という名前の堤防。

本稿ではここまでを吉見領大囲堤とし、横手堤を控え堤としている。その典拠は、国交省が公開している『荒川の大囲堤』という資料による。

だが⑨の地域は厳密には吉見領ではない。もし相上堤までをひとつの大囲堤とするならば「荒川大囲堤」と呼ぶほうが適切だ。『新編武蔵風土記稿』では荒川大囲堤という記述になっている。

写真

相上堤は吉野川の右岸堤防と一体となっている。玉作水門から続く土手である。

写真

玉作水門から2km弱さかのぼったところに神社があり、その鎮守の杜から堤防が丘陵地帯まで続いている。

ここが大囲堤の北端だ。

この堤防の外側で発生した氾濫水は写真右側の岡排水機場から和田吉野川に排水される。

写真

この堤防は、言ってみれば和田吉野川右岸堤防に対する控え堤である。

以上が、吉見領大囲堤の概観になる。

大囲堤の総延長は20kmほどあるが、自家用車で効率よく回れば1日でひと回りできるかもしれない。

次ページからは吉見領大囲堤の内部のスポットを紹介しよう。

(2023年01月04日訪問)