東吉見第2横堤・御成橋

横堤の上に集落がある! かつて河岸場だったという。

(埼玉県鴻巣市滝馬室)

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埼玉県道27号線は東松山と鴻巣をつなぐ幹線道路で交通量も多い。この県道で荒川にかかる橋が御成橋(おなりばし)だ。江戸時代に将軍が鷹狩りに訪れることが多かったことから付いた名前だ。

御成橋への入口には日本一川幅が広い場所だという看板が出ている。その川幅は2,537m。

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県道を走ってこの川幅を横断した個人の正直な感想を言うと「ん? 日本一ってこんなもの? 川、どこにあった?」という感じ。

川の広さのとらえ方は2通りあり、水が流れている部分である「低水路」と、河原である「高水敷(こうすいじき)」がある。この辺りの荒川の低水路の幅はわずか25mほどしかなく、日本一はあくまでも高水敷の幅なのだ。

川幅という語感からしたら、木曽三川の河口部や利根川の銚子大橋付近は水面が1km以上あるからそちらのほうがイメージしやすい。

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なぜ、この場所に日本一の幅をもつ河川敷ができてしまったのかというと、江戸時代以降の治水と関係がある。

この地域は元々は和田吉野川や市野川という川の氾濫原だった。人々はその氾濫原の肥沃な土地を求めて、水害のリスクのある場所に住み着いた。江戸時代初期に、大宮台地の東へ流れていた荒川が現在の位置に付け替えられると、水量が増えて水害のリスクがさらに高まった。

そこで人々は長大な堤防を造るようになる。現在の感覚では川の水が流れる場所に連続的な堤防を造って水を封じ込めようと考えるが、かつて川は蛇行していたしダンプや重機もない。そこで自然堤防(川が砂礫を運んだ帯状の微高地)を利用して村を囲むような堤防を造った。川を封じ込めるのではない、村を堤防の中に入れて守るという発想の輪中堤(わじゅうてい)である。

現在、この地域の荒川右岸堤防はかつての輪中堤を補強したものなのだ。そのため堤防は大きくカーブしていて、結果として広い河川敷が生まれた。大正時代の河川改修で荒川は大宮台地の崖線に沿って直線化されたが堤防はそのままで、広い河川敷は高水時の遊水地として残った、それが現在のこの地域の姿だ。

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さて、改めて県道27号線を見ていくと、その西半分は抜水橋ではなく土手の上を通っている。これは実は、東吉見第2横堤(よこてい)なのだ。

県道を走りながら「いま横堤の上を走ってる」って意識している人は1%もいないとは思うが・・・。

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さらに堤防の上を走っているという意識をにぶらせるのが、途中に集落があること。

横堤の中央部700mほどの区間家並みが続く。

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この集落の人々は、堤外地にある横堤に貼り付いて暮らしているのだ。

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家並を裏側から見てみる。

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横堤の法面に庭や家庭菜園があり、家は横堤の上部と同じレベルに建てられている。

おそらく高水敷が水没しても家まで水が来ることはないだろう。

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このような、堤防に家を建てたものを呼称する言葉があるのかどうか寡聞にして知らない。あえて言えば「水塚(みつか)」の一種だろう。

似たような家並みは埼玉県では北東部の北川辺町でも見ることができるが、そこではおそらく水塚と呼ばれている。

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この横堤に集落がある理由は、農家が耕作地の近くに住み着いたというものではない。

写真の奥側を左右に横切る林は河跡湖だ。かつて荒川はこの林の場所に流れていて、渡船や河岸場があった。御成河岸という河岸で非常に繁栄したという。

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その中心部は御成銀座とも呼ばれ、商店が並んでいたそうだ。

河岸の町並みは現在の河跡湖に沿った自然堤防にあったと考えられる。河跡湖に名前を残す釜虎(かまとら)は御成河岸の川棚の料亭だったのではないか。

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荒川が直線化され横堤が造られたとき、堤外地に残ることを選んだ御成河岸の住民が現在横堤の上に住んでいる人々なのだろう。

堤外地に人が住んでいる場所って全国的にも珍しいのではないか。

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一応、抜水橋の御成橋も見ておく。

東吉見第2横堤は長さが約1,700mあり、その突端が御成橋の始まりになっている。

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御成橋の橋長は約800m、現代的な鋼鈑桁橋だ。

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荒川の低水路は橋の東詰め近くにある。

自動車が川面を通過するのにかかる時間はわずか2秒弱である。

(2022年11月22日訪問)