玉作新田の水塚

石垣で固められた強固な水塚。

(埼玉県熊谷市玉作)

これから何ページか大里町の風景を紹介していくつもりなのだが、大里町は現在熊谷市に合併されて地名が消滅している。たとえばここ数ページ書いてきた大字「玉作」は「熊谷市大里町玉作」ではなく「熊谷市玉作」なのだ。

だけど、和田吉野川と荒川に挟まれた地域のことを「熊谷市南部を紹介しますね」というのは何か違う気がする。やっぱり大里町、大里地区、旧大里村と言ったほうが把握しやすいのではないか。

まず見ていくのは和田吉野川南岸の大字「相上(あいあげ)」と「玉作(たまつくり)」のエリアだ。

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これは大里町の標高を色で表した地図である。町の北部は荒川扇状地の扇端、南部は和田吉野川や荒川の氾濫原になっている。

高低図を見ると玉作は町の大部分よりも低い土地だということがわかる。だが同時に、家が集まっている場所は和田吉野川の自然堤防上で、田畑よりもわずかに高くなっていることもわかる。こうした場所には水害に備えた生活様式が見つかるかもしれないと考えて、集落の中を車で走ってみた。

だが結論を先に言うと、相上と玉作にはわかりやすい水塚(みつか)や上げ舟といった氾濫原集落の風景は見つけにくかった。「まったく見当たらない」というわけでもないのだが、水塚って屋敷森の中にあったりするから写真で表現しにくいのだよね・・・。

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そういう条件で、比較的わかりやすかったのが小字玉作新田にあるこの水塚。

➡ 場所

水塚とは敷地内を土盛りして、周囲が浸水したときでも家財を守るという設備。氾濫原で暮らす人々が編み出した知恵だ。

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家の敷地自体がまずかさ上げされていて水塚といえるのだが、そこからもう一段階高い塚があり、そこに蔵が建てられている。

主屋よりも蔵を高くしているという非常にわかりやすい水塚だ。主屋が床上浸水しても蔵の中の家財は守られる。しかも蔵が2階建て。

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一般的な水塚の法面は土坡で、屋敷森のカシや竹やぶなどで土壌を保護しているものが多いのだが、この水塚はまったく樹が植えられておらず石垣で固められている。

屋敷森はそれなりに管理が大変なのだが、こうしてあれば管理もしやすいだろう。

あまり他では見たことがなく、珍しいタイプの水塚だと思う。

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もう1軒、わかりやすかったのはこちらのお宅。

➡ 場所

宅地全体がかさ上げしてある。これだけの工事をするのは相当の費用がかかるだろう。

たぶん現代でも50年、100年という単位で見たらこの地域が水害に見舞われることはあるはずだ。つまりこうした施設を持つということは100年後も自分の子孫がここで生きているという思想がなければできるものではない。

(2025年06月19日訪問)