群馬に引越してから、近所の方々にいろいろお世話になることが多くなったのだが、その近所の方々と出かけたことがあって、そのときに立ち寄ったのが五料の茶屋本陣。
五料は、中山道の碓氷峠の近くにある
群馬県で生まれ育った私にとって、「間宿」も「茶屋本陣」もよく耳にした言葉なので、街道には普遍的に分布するものだと疑うことはなかったのだが、よく考えてみると、他県ではあまり茶屋本陣というものを聞かない気がする。この茶屋本陣という制度の真相は、本当に観光ガイドの言葉通りのものなのだろうか・・・。
さてその茶屋本陣だが、左写真のようなものである。
この場所に来たのは、高校生のころ以来なので、ん十年ぶりになるのだが、来てみてあぜんとした。
確か、高校生のときに来たときには、ここは個人の住居で、赤トタン葺きの屋根で二つ櫓を上げた養蚕農家だった。よほどの注意力がなければ、この街道筋にある他の養蚕農家と区別することもできないような、ぼんやりしたたたずまいだったし、たぶん見学も出来なかったと思う。
それがいつの間にか、おそろしくキレのある展示古民家に変貌していたのだ。
ここまで改装してしまうと、もはや当時の住人が生活していた建物とは別物になってしまっており、史料としての面白みは逆に損なわれているような気がしてならない。
たとえば、これは玄関を入ったところにある風呂。かつてここに風呂があったことは100%間違いないが、昭和末期に湯船のない風呂を使っていたはずはなく、自分としては「江戸自体の風呂の間取りは、昭和には何に使われていたか」とか、そういう時代の変化のほうが知りたくなってしまうのだ。
また、たとえばこの座敷。初期の二階屋では神棚のある部屋の上には床を張らず、吹き抜けにするというのが教科書的な説明であり、その通りになっている。
でも、上部のケタに着目するとホゾが切ってあり、明らかに二階の床があったはずだ。それを改修時に取り払い、二階の土壁もしれっと古風に再現したのだ。見学者はこの造りを見て「古民家の造りはやっぱり教科書通りだな、教科書に書いてあることが証明された」などと納得するのか?
ちがうだろ、それは。
マニュアル通りに改装された「模造品」が、マニュアル通りになっていることを見て納得することが、建物を見る楽しみと言えるのだろうか。
なにか、とてもむなしくなってしまう。もっと別の楽しみかたができるような民家展示はできないものなのだろうか。
茶屋本陣とされている民家は2棟あり、それぞれ「お西」、「お東」と呼ばれている。
お西の建物内では、季節がら、雛人形の展示が行われていた。これはそのうちの、「御殿かざり雛」と呼ばれるもの。江戸後期に発生し、明治以降に普及したとされるもので、私の幼少時、昭和30~40年ごろにはまだデパートなどで、もう少し洗練されたものがいろいろな種類売られていた気がする。
これも雛人形の一種なのだろうか。
養蚕の守護神、絹笠明神の人形がたくさん並んでいた。
右手に桑を持っている。
これは、「
江戸後期に岩槻市近辺で作られたもので、大正時代にかけて北関東に広く普及した。初節句なのど贈答品だったそうだ。親戚が多いと、たくさんの裃雛が集まったという話もある。
なんとなく、ぬいぐるみ電報みたいなチープな感じがしないでもない。
つづいて、お東のほうへ行ってみた。
入場料は、お西とお東は共通で、敷地はつながっている。
建物の妻の面にこのような格子の真壁を見せる建物は、中山道沿いに多い印象がある。特に長野県で多いような気がする。
妻飾りの「雀おどし」はまさに長野県の民家の特徴だ。
こちらも、完璧に改修されている。
建物の表にある雪隠。
こういう雪隠が現在でも使われている家を、徳島に住んでいたころに何度か見たことがある。しかしこんなふうな剥き出しではなく、西部劇に出てくる酒場のドアみたいなものが付いていたような気がする。それでも簡単なドアで、“大"をするのは勇気が必要そうな雪隠だった。
昭和の時代にも使われていたと思うが、ここまで剥き出しではなかっただろう。
お東の玄関。
玄関を入ってすぐ右が厩、左が風呂。
これはお西と同じだ。
囲炉裏とカマドが一緒にある。
囲炉裏で玄関を正面にみる位置は主婦の座であり、主婦の背後にカマドがあるのは合理的だ。
こちらの建物は神棚の上が吹き抜けではなく天井がある。しかし材質は竹のヨシズみたいなもので、二階を歩くことはできない造りになっている。
神様の上を歩かないようにするための配慮であり、吹き抜けよりもあとの時代に発生したといわれている。
お東のとなりの敷地。
屋敷の外にあたるが、なんとなく墓地のような気がする。
ここから、中山道に沿って東進するように、いくつかのスポットを紹介していこうと思う。
(2013年03月15日訪問)