群馬県の県西には、国道18号線に並行して、旧中山道が通っている。中山道は、岐阜、長野、群馬、埼玉と、東進するほど宿場町の風情が薄まっていく感じがするが、群馬県の県西あたりでは、かろうじて普通の人でも街道の雰囲気を感じることができる。
その旧道に面してある寺のひとつ、自性寺。
この寺に立ち寄るのも、高校生のとき以来。
そのときは少し夕暮れどきで、山門が閉まっていて境内の様子はまったくわからなかった。今回は、昼日中に訪れたのにやはり山門は閉まっていた。
どうやら、この寺の山門は開かずの門のようだ。
すこし西に歩いたところで白壁が切れていて、境内に入ることができる。
まずあるのが、庫裡。
つづいて、土蔵。
飛び石が本堂のほうへと伸びている。
土蔵の前に、なぜか「綿打ち返し入れ」なる缶が置かれていた。ちょっと魅かれるアイテムだが、なぜこの寺にあるのか想像できない。
山門の裏には宝篋印塔がある。
左側は南北朝時代、右側は室町時代のものだという。
説明によれば、左側は応永以降に流行した逆修塔の特徴が良く出ており、右側は上段の造り出しが高く、九輪も太く短くなり、戦国期の宝篋印塔の特徴がでてきているとのこと。
山門は薬医門だった。
本堂は銅板葺き寄棟屋根。
本堂の入口がえらく右側に寄っている。
屋根の箱棟がずいぶんと立派で、妻飾りなどは雄々しい感じだ。
庫裡の西側には、住職の墓かと思われる五輪塔があった。四十九院っぽい造り。
墓地にあった無縁仏墓。
舟形や駒型が目立つ。江戸初期から江戸前期のものが多そう。材質は安山岩ではないかと思う。
その墓地の一角に「釈迦堂」という建物があった。
もしかすると、これは自性寺とは別の管理の建物かもしれない。
中をのぞいてみると、本尊などを祀る設備はまったくなく、中央は土間になっていて、左右に野道具(葬送行列に使う用具)が置かれていた。
釈迦堂という名前だが、これは仏堂ではなく、本サイトが規定するところの「野辺堂」だ。葬送行列が最後に死者と別れる場所だったのではないか。
座棺輿が2つ置かれていた。
切妻のものと、宝形のものがある。この違いは、時代によるのか、あるいは、死者の地位や年齢、性別などに由来するものなのか、意味があるものなのだろうか。
これは座棺輿を担ぐための心棒。
入口の付近には天蓋や六角灯籠などが丁寧に並べてある。
竜頭は全部で4本あった。
(2013年07月21日訪問)