2008年に稚蚕飼育所巡りの過程で、富岡市の蛇宮神社を訪問した。その時のコメントを読み返すと、『富岡市最後の組合製糸「かぶら社」を探しに行ったが別会社になってた。』とある。その後、製糸業遺産巡りを始め、製糸遺構の見方が身に付いた現在からすると、「いったい何を見ていたんだ!お前の目は節穴かっ!」と思ってしまうような腑抜けた観察ぶりであった。
確かに、かぶら社の跡地は別会社になっているが、実は製糸会社時代の建物は半分くらいが残存しているのだ。それが当時の私には見えていなかった。下の写真がその遺構の全容だ。おそらく群馬県に残る現代製糸業の遺物としては最大のものだと思われる。
ところで、いま群馬県では富岡製糸場の世界文化遺産登録を目指して活動していて、その一環として、「ぐんま絹遺産」登録というのを進めている。現時点では80箇所ほどのスポットが登録されているのだが、このかぶら社建築群は含まれていない。
ぐんま絹遺産の登録物件を見てみると、もともと市町村で文化財指定されているような「枯れた物件」ばかりが目立つ。有形文化財となるとほぼ60年以上を経ているわけだが、群馬県の絹産業の歴史は60年前に終わったわけではない。昭和後期にも産業は続いたし、製糸工場などでは平成時代になってから廃業したところもけっこうある。だが、そこで生まれた新しい遺産は、伝統的な繊維産業の衰退期の苦しい経営のなかで廃業を余儀なくされているわけだから、「うちはすばらしいところだからぜひ見学に来てください」ということにはまずならない。むしろ「もう過去を蒸し返さないでほしい」という感覚になっている関係者も少なからずいるのが事実なのである。そうした「出来たて」の「生々しい絹遺産」は、新しいがゆえに人々に省みられることもなく、いまも日々消滅し続けている。
当サイトでは近々、生々しい遺産や操業中の工場などを含めた現代版ぐんま絹遺産とも言えるようなカテゴリの記事を連載しようと思っているが、このかぶら社建築群も現代版絹遺産のひとつだと言っていいだろう。
前置きが長くなってしまったが、かぶら社建築群について見ていこう。敷地には現在複数の会社が入っているようだ。見学を申し込んでも迷惑がられそうなので、敷地の外側から見ることにした。
この場所にはもともと豊五産業という製糸会社があったという。富岡市内の資本家5人が出資して始めた製糸だったそうだ。豊五産業は業績がよくなかったのか廃業し、1975年に「甘楽富岡蚕糸農業組合かぶら社」が設備等を譲り受けて再スタート。現在残るこれらの建築は、かぶら社になってから建てられたものだという。かぶら社が操業を終えたのは1993年だった。
大きな建物は3棟ある。写真の左から階段状に棟の高さが低くなっている。
建物の用途は、推定だが、左から繭倉庫、乾繭場、荷受場と思われる。右側の建物の1階で繭の荷受け。計量や乾繭を終えた繭はリフトで2階へ運ばれ乾繭待ちになる。その後、必要量ずつ中央の建物の2階部分へ移動して、大型の乾繭機に投入される。乾繭機の投入口は中央建物の2階で、取出口は1階にある。建物の大きさからして、乾繭機は少なくとも2台はあったろう。乾繭が終わった繭はコンベアに載せられ、左の繭倉庫の最上階に送り込まれ、分類されて備蓄された。
敷地の北側に回ってみた。
繭倉庫は内部は4階建てだろうか。北側には階段室が外付けされている。
写真左手前にも、小さな倉庫のようなものがあり、外壁が同じなので、これもかぶら社時代の建物だろう。
繰糸場や再繰場は写真の左手にあったそうだ。その場所は現在は住宅地になっている。
敷地の南側に回ってみた。
繭倉庫の南と東の壁には出入口やコンベア用の開口がないので、繭の取り出しは北側にあったのではないかと思う。もちろん、繰糸場まではコンベアで結ばれていただろう。
乾繭場の1階から、繭倉庫の最上階へのコンベアがまだ残っていた。壮大な施設だったことがわかる。
最盛期には年間300トンの生繭を受け入れ、50トンの生糸を生産したという。
敷地の南側は鏑川。製糸では大量の水を必要とするので、川の近くに作られたのだろう。
同じ市内に残る富岡製糸場では、保存されている機械類は昭和30年代以降のものだが、建物だけが明治初期というアンバランスな構成だ。昭和の製糸工場の一般的な姿とはいえない。
その点で、かぶら社建築群は、昭和後期の製糸工場の姿を知る上で貴重な存在だと言えるだろう。
(2013年05月27日訪問)