5月3日、前橋市上佐鳥町の春日神社に「蚕の舞」という養蚕神楽が伝わっているというので見に行ってみた。
神楽の中で、養蚕のやりかたを面白おかしく見せるというものだ。群馬県内では渋川市にある赤城神社の養蚕の舞が有名で、ここ春日神社のものは赤城神社から伝わったものだといわれている。
当日はたくさんの演目があり、蚕の舞はそのひとつでしかないのだが、蚕の舞を目目当てにアマチュアカメラマンがちらほら集まって、撮影ポイントを物色していた。
蚕の舞が始まるまではすることがないので境内のチェックをすることにしよう。
社務所。
壁は奉納金額が書かれた御花で埋め尽くされている。信仰の厚い地域なのだろう。
本殿の周りには、ケヤキや黒松などの大樹が茂っていて、小さいながらちょっと薄暗いくらいの林になっている。
拝殿も開いていて、奉納を受付中。
本殿は一間社流造。年代は推定で江戸末期以降。
本殿の西側には末社群。
この神社の周囲は広々とした水田で平坦地であるが、本殿の背後にはわずかな土盛りがあり、塚状になっている。古墳の残骸かもしれない。
猿田彦の碑。
神社の南側の畑の一角には、一条だけ桑が植えてある。これは蚕の舞で使うために植えてあるもののようだ。
演目の直前に氏子がこれを切ってきて準備をする。
午前10時45分ごろに養蚕の舞の演目が始まった。
登場人物は、養蚕の神、農家の夫婦と子供2人である。
序盤で、夫婦が養蚕の神から蚕種(蚕の卵)を授かり、それを飼育場所に置く。この作業は「掃き立て」というのだが、ちまちました作業だし、床に置いてやっているため、観客からはほとんど見えない。
これはオリジナルの赤城神社でも同様で、脚立でも持ってこないとこの所作は写真を撮れないだろう。
飼育が始まる。飼育をするのは子供2人だ。
左写真は桑の収穫の場面。枝を背負わせようとして、後ろの樹と一緒に縛ってしまったため、動けないという場面。
これは赤城神社の神楽にはない所作だったと思う。養蚕の舞が始まったのは明治時代といわれているが、その当時、桑の収穫方法が「枝」だったのか「葉」だったのか微妙なところで、もしかしたら、ここに伝わった後に枝で収穫する時代になってから追加された所作かもしれない。
ほかにも、鎌で間違えて自分の足を切ってしまい、包帯を巻く場面などこっけいなが続く。
左写真は枝から葉をもいで、蚕に与えているところ。本物の桑を使っているので、かなり本当の養蚕の雰囲気に近い。
オリジナルの赤城神社では、開催日が4月6日でまだ桑に葉がついていないので、常緑樹のアオキを桑に見立てて演技をしていた。
少し給桑していたかと思うと、あっというまに蚕が育ってしまう。
「え、もう?」と思ってしまうくらい、給桑の所作は短かった。
左写真は蚕が「ずぅ(=熟蚕)」になったのを日にかざして確認しているところだろう。熟蚕とは、糸を吐くために体が変化してきたカイコの状態をいう。体の中にゼラチン状の絹糸腺が急激に発達するため、蚕の身体自体が透き通ってくるのだ。
繭の収穫らしき場面もなく、酒盛りの場面に移る。
オリジナルの赤城神社の舞とくらべるとずいぶんはしょっている感じだ。そして酒盛りの場面は、けっこう長い。
その後は、菓子や文房具投げがある。
午前中あまり見物客はいなかったのに、いつのまにか子供が集まってきていた。みんなこの時間に菓子投げがあるのを知っていて、ちゃっかりとぎりぎりの時間に集まってくるのだ。
おどけ役が、フェイントをかけて観客を煽っているところ。神楽の菓子投げでは定番であろう。
ここでかつて、蚕の飼育に使う竹箸を投げた時代があった。箸は蚕の稚蚕の飼育の際に使う用具で、ここで取った箸を使うと蚕が当たるといわれていたそうだ。
養蚕県群馬らしい興味深い神楽であった。予祝儀礼のようでもあるが、本来は養蚕の作業についての教育効果も持っていたのではないかと思う。この神楽の元になった渋川市の赤城神社の舞は、養蚕の手順をかなり細かく再現しているからだ。
だがここ春日神社では省略が多くなってしまっていて、給桑の場面がかなり物足りなく感じてしまった。
(2014年05月03日訪問)