樺澤商店・製糸部。前橋市芳賀工業団地の一角にある製糸工場である。「工場」なのだから工業団地にあるのは当たり前なのだが、前橋市で製糸工場を探すというとき、なかなかこの場所は思い当たらない穴場である。
「製糸部」と名前がついているのは、樺澤商店が製糸以外にも、中繭の仲買い、座繰り糸の賃引をさせていたためであろう。50年ほど前には、赤城の南面に100人の引き子を抱えて座繰り糸を作らせていた。
樺沢商店の製糸工場はもともとは、中央前橋駅のすぐ東側にあり、都市計画で一度市内で移転したあと、今度は公害問題で工業団地に移転したという。移転当時は、全自動のボイラーを使った最新の工場で、見学者も多かったという。
2002年ごろまで操業し、27、31、60デニールの節のない生糸と、400~500デニール程度の玉糸を生産していたという。訪問したのは2012年だったので、10年来るのが遅かった・・・。
製糸工場の設備はもう撤去されてしまっていた。従業員は最大14人だったそうだ。27~60デニールの生糸は、集緒器を通して糸をタテに引き上げ、作業者の頭の後ろにある小枠に巻き取る方式、いわゆる諏訪式繰糸だったようだ。400~500デニールの玉糸は、ホウキと弓で集緒して糸道は横に引き出されて卓上の小枠に巻き取られる方式で6釜あったという。横引きの動力付きの繰糸機は、豊橋で開発された機械なのだそうだ。このタイプの動力付き機械を座繰器と呼んでいることがあるが、実は豊橋式繰糸機と呼ぶべきなのかもしれない。
愛知県豊橋市は、玉糸の器械製糸のメッカのように言われるが、その創始者は前橋市富士見町出身の小渕志ち(しち)という女性だとされている。志ちは玉糸の技術を豊橋に伝え、玉糸繰糸の機械化に成功した人物である。その機械が群馬に逆輸入され、前橋の玉糸製糸を開花させたのである。
本来であれば志ちは上毛かるたに読まれてもおかしくない偉人なのだが、婚家を出奔した等の事情により、群馬県では無視されている存在なのである。(富士見村カルタには読まれている。)
特別に取材させてくださった、樺澤商店さま、ありがとうございました。
(2012年08月03日訪問)