街道から見えた丘の上のパゴダへ向かう。
血気にはやって手前のアゥントーム寺院に入ってしまったが、そのまままっすぐ走ればこの丘のところへ来ることができたのだ。
麓の岩山からして、ミャンマー人がパゴダを造らずにはいられないような風情。
パゴダのある丘は大した高さでもなく、参道も特に険しいというわけでもないのだが、暑季の寺参りはちょっとした登りでも体力を奪われる。
温度計で測ったわけではないが、日なただと四捨五入で40度にはなるのではないかという猛暑なのである。
汗だくになりながらパゴダの頂上へ到着。
タコンタイはてっぺんにオシドリ、下部は四天王が支えるというわりとよくあるパターン。
仏塔のほうは、基礎(写真の四角い平面の構造)が妙に高く、その上にのった八曜日の守り本尊への参詣がしにくい造りだった。
小さな丘の上になるので、周囲が見渡せる。
さっき行ったアゥントーム寺院の伽藍が下に見える。
よく見ると、その奥の丘の上にもパゴダがある。距離的に別の寺なのだろう。ターマニャヒル近傍はまだ見落としがけっこうありそうだな。
パゴダの東側に
裸足で登っているので、こういうところを歩くのはキツイのだが、確認してみる。
イデっ、イデっ、イデっ、イデデデデデっ・・・
ナニモナイ・・・イデデデデデ。
丘の上から北西を見ると、ターマニャヒルを一望できる。
もともとはナッ信仰の山だったというが、1981年にターマニャ僧正がここに寺を構えた。ミャンマーの仏教ではよく言われることだが、僧正はさまざまな予言をしたり、瞬間移動や空中浮遊などの超常的な能力を持つとされ、実際にそれを体験したというミャンマー人は多い。やがて信者は増え、ターマニャヒルは仏教の聖地となっていった。
西麓には門前町ともいえるウィンセイン村があり、いまも大勢の参拝客でにぎわっている。ウィンセインは信者たちが移り住んでできた村で、多くの住民はいまでも僧正の教えの菜食主義を守っている。聞くところではコンニャク料理の種類が多いとか。
軍政時代、僧正は平和主義、不戦を標榜して内戦で被災した人々を受け入れた。説法で堂々と軍政批判をしたにもかかわらず、全国的な人気のせいで政府もターマニャ僧正を抑えることはできなかった。そのため政府と対立する民主勢力の心のよりどころとなっていった。アウンサンスーチー女史も1995年に自宅軟禁を解かれて最初に旅行をしたのがターマニャヒルだったというくらい信仰が厚かったという。
その僧正も2003年末に亡くなり、その遺体は中腹に見える金色の霊廟に収められた。だが、ミャンマー軍が霊廟を襲い、遺体は強奪されて行方不明になっている。
東のほうを見ると、街道をはさんで反対側にも小さな丘がある。
どうやらいま登っているパゴダと、この反対側の丘はセットでひとつの寺になっているようだ。
丘を下りて、今度は反対側の丘へ移動。
寺の名前は「ターマニャリー」、「ミニ・ターマニャヒル」というような意味。
また登りだ。本当にささいな登りなのだが、地味にキツイ。
それでもこっちの丘は日よけがあるだけマシか。
丘の上へ到着。
岩の上に小さな展望台がある。
展望台へは階段と橋懸かりで取りつくようになっているのがすばらしい。こういうアイデアは、ミャンマーはさすがだなと思う。
パゴダのある床はピンクのタイル敷きで、かなり熱くなっていた。
ほんのわずかな日陰だけを飛び移りながら何とか展望を楽しむことができた。
正午過ぎには熱くて歩けなくなりそうな展望台だ。
きょうこれから向かうチョンドゥ方面の景色。中央に見える金色のパゴダはいまいる寺とは別らしい。このあたりにはいくつもの小さな寺が密集しているのだ。
見渡す限り、なだらかな丘はいくつかあるが基本的には広大な平野が続いている。その先にはタイ国境付近の山々もうっすらと見えている。高い山脈ではないのだ。
ジャイン川はこの地平線を左から右方向に流れていて、きょうはジャイン川に沿ってこの風景の中を横断することになる。
・・・何もなさそうだな。
きょうの道程は私がミャンマーに来てから一番何もない場所を走ることになるのかもしれない。それはそれでよいのだけれど。
先ほど登った丘はパゴダを中心として参詣専用の丘だったが、こちらの丘は展望台以外はすべて修行の場であった。
これは
横を通ったらお坊さんが出てきて、食事をご馳走するから寄りなさいと誘われた。あまり空腹でもなかったし、以前、やはり菜食主義のプゥテキ僧院で現地の人向けの味付けの激辛料理で半泣きになったので、ここは遠慮しておいた。
食堂から少し登ったところに講堂。
山頂にあったのは僧房だと思う。
こじんまりとした僧院だった。
(2015年05月02日訪問)