中山神社

中山造りの語源でもある古社。

(岡山県津山市一宮)

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津山市の郊外、北の町外れまで移動した。

目的地は美作国一宮である中山神社。

津山市を南北に流れる宮川の上流、崖線の終わり、舌状の丘陵の突端に境内地はある。神社の前100mくらいは、しもた屋が並びちょっとした門前町の風情だ。

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鳥居の前には、バオバブの木を思わせる巨大なケヤキがある。

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祝木(いぼぎ)のケヤキ」といい、推定樹齢800年。神社の本殿などは室町時代に一度焼失しているが、このケヤキはそれよりも古い時代からここに立っていたことになる。

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一の鳥居。

中山鳥居という形式。明神鳥居と似ているが、貫が柱のところで止まっていて、外側に突き出ていないものをいう。

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鳥居をくぐると、薄暗いヒノキの林の中を80mほどの参道が続いている。

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参道の途中にあった銅牛。

旅の二日目に立ち寄った田倉牛神社の案内板で、岡山で江戸時代に牛を飼うことが推奨され、そのため各村に牛を祀る祠が造られたようなことが書いてあったが、これもそのひとつなのか。

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ところでさっきから写真のヒノキの樹の幹が妙に赤く写っていることにお気付きであろうか。

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これはヒノキの樹の皮をむいた「檜皮(ひわだ)剥ぎ」の跡なのだ。ヒノキの樹皮は檜皮といって神社の屋根を葺く原料になる。おそらく神社で屋根を補修するかなにかの理由でむいたのだろう。

血のような色ですごく痛々しいが、これでヒノキが枯れることはなく10年ほどで復元するという。

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参道の途中にあった水盤舎。

境内図。

本殿と拝殿の間の、一般的には石の間とか相の間と呼ばれる構造物に対して「釣殿」という表記がされている。この構造物を釣殿と呼称している例はいくつかあるが、私はこの用法については懐疑的で、そのことは鶴山八幡宮の稿で書いた。

また、社務所の右側に「寵殿」という表記もあるがこれも謎の建物だ。もしかしたら「竈殿(へついどの)」の誤記ではないかという気もする。(うかんむり)しか共通点はないのだが、何となく似た字ではないか。

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参道の先には、御手洗川という小川があり石橋がかかっている。その先には神門の薬医門。

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一言で言ったら、勇壮な門だ。蟇股の意匠などとても力強い感じがする。

津山城二の丸にあった門を移築したものだという。案内板の説明の文章には「四脚門」と書かれているが、これは「薬医門」でいいと思う。

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案内板で「寵殿」と表記されている建物。現在は児童クラブの建物として使われている。

外観や用途からすると、参集殿と言いたくなる建物だ。

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寵殿の横には社務所。

向拝付きの立派な建物だ。

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社務所の奥のほうは、渡り廊下で拝殿と連結していた。

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神門の左側には神楽殿。

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神楽殿の横にある末社の惣神殿。

中山造り。

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さらに進むと、中門で平唐門の四脚門がある。

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平唐門とは、このように横側から見たときに破風が唐破風になっている門をいう。

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拝殿と本殿はいずれも透垣の中に配置されている。

一般的には拝殿から後ろが透垣に囲まれている場合が多いのだが、この神社は拝殿の手前に中門を置くことで社殿全体が透垣の中にある。

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本殿は中山造り。つまり入母屋妻入りの建物で、正面側に唐破風向拝が付いたもの。「中山造り」という言葉自体が、この神社を基準したものなのだ。

国重文に指定されている。

屋根は檜皮葺きである。

このとき雨が降ってきて慌てたため、肝心の本殿がわかりにくい写真になってしまった。

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本殿は室町末期(1559)の再建。

案内板によれば室町建築と安土桃山建築の過渡期の特徴を持っているとのこと。

確かに軒の彫刻などぱっと見にも安土桃山建築の様子が強く感じられる。軒の出や屋根の反りの角度などには室町時代の洗練された優美さが漂う。

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神厩があった。

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内部の神馬。

牛も一緒に奉納されている。

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末社。

あとで調べてみると裏山に登ると猿神社なる末社があったようだ。境内図に書かれていなかったので見落としてしまった。

もっともこのときは雨が降ってきていたので、わかっていても山には登れなかったと思うが。

(2003年04月30日訪問)

今こそ行きたい日本の神社200選 (TJMOOK)

ムック – 2022/7/26
島田 裕巳 (監修)
本誌は22社、神宮、大社といった社格の観点に加え、地域ごとの特徴的な信仰なども鑑み、訪れるべき神社200社を厳選。その神社ならではの宝物や建築物といった見所を紹介するほか、祭神の歴史や由緒を写真とともに解説します。

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