美保関の町並みは佛谷寺の参道にある恵美須神社を境にして、東西に別れている。
こちらは東半分の路地の入口。
東半分はあまり町並み観光としては開発されていない感じで、しもた屋が続く。
やはり建物はウナギの寝床の地割りで、かつては妓楼などが並んだ場所だったのだろう。
東側の路地の総延長は300mほどか。
こちらは、恵美須神社から西側の町並み。青石畳通りと呼ばれる路地である。
豪華な遊客風の旅館も目立ち、町並み観光として意識した町造りになっている。
佛谷寺のページでも書いたが、「
当然、多くの船乗りたちがこの地に上陸し、そうした男達相手の歓楽街としても繁栄した。最盛期には遊女100人がいたという。遊女とは、藩や政府から認可された正式な娼館の従業員であり、非公式な商売女も含めればさらに多くの女たちがいたはずだ。そういう歓楽街ができれば、今度は船乗りたちだけでなく近隣の町や農村部などからも遊びにくる男たちもあったはずで、ここは山陰でも随一といえる色街であったろうと思う。
この建物は美保関でも最も当時の繁栄をよく伝える建物「美保館」。こちらも妓楼的な雰囲気のある豪華絢爛な旅館である。
美保館の玄関の様子。
美保館の隣りには暗い路地があるが、海岸通りまで通り抜けることができる。
こちらは美保館の向かいにある「和泉屋」と呼ばれる旅籠。
廻船問屋も営んでいて、和泉地方との取引を独占していたことからそのような屋号で呼ばれるようになったという。
とはいえ、とても妓楼的な風情のある建物。
美保館のとなりの木造4階の旅館。
こちらは恵比寿館という旅館だが、案内によれば元々は倉庫業(?)から身を立てた物が商売を始めたので、「宮内の納屋」と呼ばれているという。
恵美須館は外観はモルタルだが、木造モルタル4階建ては美保関町でも最も目を引く建物だ。
青石畳通りの端まで歩くと、美保神社の参道に出る。
なお、青石というと緑泥片岩などの外帯の変成岩をいうが、この通りの名は「青石/畳通り」ではなく、「青/石畳通り」のような意味らしく、水に濡れると空を移して青っぽく見えるというようなことらしい。
美保神社についてはこのあとゆっくり紹介するとして、今度は海岸通りのほうへ出て、先ほどの旅館の裏側を見てみよう。
荘厳な木造モルタル4階の恵比寿館。
その隣りの美保館。
右奥に見えるRC造の建築は美保館の新館である。
先ほどの薄暗い路地を抜けるとここに出るのだろう。
海岸通りの様子。
(2005年09月03日訪問)