美保関町へやってきた。美保関港は古い時代には海の関所「海関」として潤った港だった。
「美保関」の「関」は関所の意味なのだ。
港町の常で道は狭く、車は入れない。だがここは観光地なので、海岸沿いに充分な駐車場があり、そこへ車を置いて歩いての観光となる。
最初に目指したのは佛谷寺。町の中心部にある恵美須神社のところに道案内があった。
寺の参道は細い路地で、クネクネと曲がりながら続いていく。
路面は石畳になっている。
この路地の家々のほとんどは平入りなのは昨日見た鷺浦と似ている。だが、鷺浦の家々が長方形の長辺を平にしているのに対して、この通りでは短編を平にしている。いわゆる"ウナギの寝床"である。
これは美保関が漁村ではなく、宿場町的な成り立ちであることを表わしている。宿場町とは言葉通りのものではなく、遊女や飯盛り女などを置く歓楽街としての機能も持っていたはずだ。かつて北前船の風待ち港として、船乗り相手の宿屋が多くあった路地なのではないか。
その細い路地の突き当たりに佛谷寺の山門が見えてきた。
山門は薬医門。年代は新しい。
宗派は浄土宗。
山門を入って左側には地蔵堂がある。
この地蔵は八百屋お七の恋人、小野川吉三郎の墓だという。お七は火事の避難所で吉三郎という小姓といい仲になった。その後彼女の家は再建され吉三郎と離れ離れになる。彼女は火事が起こればまた吉三郎に会えると考え自宅に火をつけた。当時放火は死罪であった。吉三郎はお七の死後、供養のため諸国を旅し、最後にこの寺にたどり着き亡くなったという。
こういう艶っぽい物語があるのも、ここがかつて花街だった名残ではなかろうか。
山門を入った右側には拝観受付所、RC造の大日堂がある。
当寺には、木造薬師如来座像と脇侍、木造観音菩薩立像と虚空蔵菩薩立像の5体の国重文の平安仏あるというので、このお堂に納められているのだろう。
山門を入った正面は庫裏になっていて、本堂は左に90度曲がった先にある。ここは谷のどん詰まりになる。
本堂も時代は新しそう。
他に墓地の中に方3間のお堂があった。中はがらんどうで、何も祀られていなかった。
(2005年09月03日訪問)