川北街道、加茂坂の西行きの風景。
この区間は県道12号線と、旧街道が重なっていて県道の両側に古い人家が並ぶ。この並びに、加茂座という芝居小屋があった。
その芝居小屋の建屋はいまでも残っている。
この白い看板建築が、旧加茂座だ。
川北街道を通行している徳島県民の何%に、この芝居小屋が見えているだろうか・・・。
加茂座は賀茂神社の参道前にある
専業の映写技師はおらず、映画を上映するときは経営者の父子2人で行っていた。その父の孫に当たる人がいま70歳くらいなので、開業したのは確実に戦前だが、もう正式な時期はわからないという。大正時代だった可能性もある。
割石さんの親戚というおばあちゃんから話を聞くことができた。
加茂座がいつからあったかはわからないが昭和初期にはすでにあり、昭和24年ごろ入場料が30円だったという。親戚として加茂座を手伝っていたので、芝居や映画はタダで観ることができた。
最盛期は昭和30年代と思われる。県道が拡幅されたのが昭和42年ごろで、閉館したのも同時だというが、やや疑問が残るところもある。というのも、おばあちゃんが好きだった髙橋英樹の時代劇を加茂座で観たのがきっかけで、自分の子どもに英樹という名前を付けたそうだ。だとすると、時代的には昭和40年代の半ば以降も映画館として存続していた可能性がある。
表側のガラス戸から中を覗くことができる。
映画だけでなく、芝居や浪曲も上演していた。
映画館は閉業後、縫製工場、電機部品工場として使われたので、内部には劇場としての設備は残っていない。
奥側から表通り方向を見たところ。
前列側は座布団に座り、後列側は椅子席だったという。
こういう場所で映画を上映できたんだ・・・。
建屋の外観はほとんど当時のまま変わっていないそうだ。
これは建屋の右側外壁。
これは建屋の左側外壁。
主屋の後ろ側には楽屋と旅芝居の一座が宿泊した別棟も残っている。
春子大夫はおばあちゃんの話だと奇麗な人だったという。それが浪曲の歌い手3代目春子大夫のことだとすれば名前は女性みたいだが男性で、いわゆる女義太夫ではないのだが、何かの勘違いなのか。
なお徳島県内では、ほかでも「春子大夫が来たことがある」という話をよく聞く。
(2007年01月07日訪問)