2012年12月28日、年も押し詰まった日、板倉町へ民俗行事を観に行くことにした。
ただ、それだけだと内容が少なそうだから、途中で島村の田島弥平旧宅に寄っていこう。
田島弥平は明治時代の実業家で、農業技術書『養蚕新論』を書いたことで知られる。その家がいまも島村に残っている。
田島弥平の旧宅は、現在世界文化遺産の構成遺産候補になっている。(2014年に正式登録された。) いまも住人が住んでいるが、世界遺産の関係でちょっと見学しやすい雰囲気になっているのだ。
田島弥平の業績は一般には「清涼育」という養蚕の手法を研究し広めたこととされている。清涼育とはカイコを飼育するときに通気を重視せよという教えである。弥平の家は豪農で、島村はカイコの卵の新興産地として頭角を現しつつあった。それまでカイコの卵の有力産地は福島県や東北だった。弥平は現地に学び島村で実践したところあまり上手くいかなかった。東北は気候が涼しかったため蚕室を暖める方法「温暖育」が推奨されていたからだ。関東平野は気温も高く、むしろ換気をよくしたほうが成績がよかったのである。
弥平はその経験をもとに、明治6年(1873)に『養蚕新論』という技術書に清涼育の方法を詳細にまとめた。
実は養蚕の技術書は江戸前期の1700年ごろにはすでに出版され、その後も断続的に技術書が出ているので、『養蚕新論』は最後発になるのだが、それだけに内容が詳細で蚕室の設計にまで踏み込んだのが特徴だ。
その図面を見ると、蚕室は小部屋に分割され、前後に廊下をもつ回廊型だ。これは初期の稚蚕飼育所や蚕種業の建物に見られるプランだが、北関東に現存する農家の蚕室でこうした造りは見たことがない。
ではこれから弥平旧宅を見ていく。入口は南東側と北東側の2ヶ所があり、それぞれに薬医門がある。
門を入った左側にあるのは貯桑場とされる建物だが、貯桑場として使われたのは1階であり、2階はカイコを飼育しただろうと思われる。
門を入った右側にあるのは別荘(?)とされる建物。江戸期の建築で、弥平宅で最も古いといわれている。
1階は馬小屋で、2階が物置になっている。かつては使用人などが寝起きした場所かもしれない。
屋敷神。
ここから奥は立入禁止。
主屋は幕末の建物で、北関東で見られる養蚕農家としてはかなり立派な部類。
こういう民家は北関東に特に多く、生活空間と養蚕の空間が兼用になっているものだ。幕末~明治初期には、養蚕は春しかできなかったので、その期間だけ生活空間を片づけてカイコを飼育した。
主屋の間取りは外観からの推測だが『養蚕新論』の図面とは異なり、富沢家などと同じで1階は普通の「田の字」プラン、2階は間仕切りなしの上蔟室であろう。
Wikipedia の田島弥平旧宅の説明をみると「弥平が確立したヤグラのある養蚕家屋は"島村式蚕室"と呼ばれるようになった」という記載があるが、事実かどうかちゃんと調べたほうがいいと思う。こうした形式の民家はそれ以前からあった可能性が高いし、島村式蚕室という用語が使われてきた事実があるのかも疑問だ。
私も日ごろは面倒くさいからこうした農家を「島村型民家」などと雑に呼んでいるけれど、この民家の発祥の地が島村であるという認識で言っているわけではない。
主屋の右側を見ると、渡り廊下のようなものが出ている。
これはかつて主屋の右側に3階建ての派手な蚕室がありそこへ通じていた。
3階建ての蚕室の跡は礎石が残っている。
これが3階建ての蚕室の古写真。
う~ん、これはもはや農業施設というより、富を誇示した楼閣といった風情だね。
写真の左端には現在は存在しない蚕室が見切れている。この蚕室は「香月楼」と呼ばれていた。
香月楼の全景。
香月楼は解体されて売られたというような話もある。密かにどこかに残っているんじゃないかと思って、深谷や妻沼の辺りに行くといつもキョロキョロと探している。
なお、明治時代に山形県から田島家に養蚕を学びに来た人たちがいて、香月楼とほぼ同じものを地元に建てている。
鶴岡市に現存する松ケ岡開墾場の蚕室が香月楼のコピーと考えられ、見学もできる。
田島弥平の飼育技術に興味がある人は必見だ。
北西側の門。香月楼の古写真に写っているものと同じだろう。これで田島家の見学はひと通り終わり。
正直、田島弥平旧宅を見学しても明治時代の養蚕や清涼育についての理解が特に深まるとういこともないと思う。よほど養蚕史に興味のある人でないと何を見ていいのかわからないのではないか。
せめて3階建ての楼閣や香月楼が復元されていればいいのに。
北西門を出て北に行くと、見本の桑園がある。
剪定方法は地表すれすれの根刈りだ。『養蚕新論』の記述に「わが郷里等にては根より伐り取る」「桑田三百坪へ六百本左右植えるをよしとす」とあるので、仕立て方としては弥平のいうとおりの桑園にしてある。
(2012年12月28日訪問)