くわ郷のうどんは全粒粉を使っている黒色系うどん。
黒い武蔵野うどんって所々にあるね。そして、以前武蔵村山で食べたのと同じく、ひもかわみたいな切れ端が付いてくるのも同じ。これ、黒色系うどんのルールなのかね。
さて、急きょ新たな目的地となった鴻巣市。岩槻とならび人形の産地として有名。ラジオCMで広告を出している人形店もあるので名前を聞いたことがある人も多いと思う。
向かったのは「鴻巣市産業観光館ひなの里」。鴻巣市へ移動しながら資料館を探したので、もしかしたら他にも資料館があるかもしれない。
名前が観光館ということもあって物産館の機能が主なのだが、人形についての展示室もある。
岩槻の人形博物館などに比べると1室の展示で小規模だがコンパクトにまとまっていて、人形の歴史についてわかりやすく学べる。
昭和6年(1931)の鴻巣の人形店の写真。
奥に御殿雛、右壁には浮世人形が並んでいる。当時の流行がわかる貴重な写真だ。
でも、どうも裃雛は写っていない。
こちらは工房の写真。
はっきりとは確認できないが、やはり浮世人形を作っているように見える。
古い人形の展示もある。
制作年代は安政(幕末)と書かれている、
江戸中期に能面師が作ったものが始まりとされ、顔に特徴があるという。
これも江戸後期に作られた
幕府から出された豪華な人形の禁止令に反発して、小型の人形を作ったという。
これは江戸末期に作られた古今雛。
江戸好みの豪華な衣装で写実的な人形で、現代の雛人形はこの延長にある。
御殿雛。
これは昭和10年代のもの。
ほぼドールハウス。
もはや要塞かと思うような豪華な御殿。
完全に建物のほうが主役。
こういう目がチカチカするようなゴージャスな建物がいいとされたのも時代なんだろう。
鴻巣ではほかに「赤物」と呼ばれる土人形が作られていた。
人形としても売られたり、縁起物の熊手などに付けられて販売された。
なお、現在でも1軒、これを製造している工房が鴻巣にはまだ残っている。
目当ての裃雛の展示は隅っこにあった。
裃雛と一緒に展示されていた「ぶら人形」という安価な人形。
胡粉の練り物で作られた手足が布でつながれていて、手足を動かしたり着せ替えができたりするという、人形遊び用の人形だという。
裃雛と同様に、華麗なものとは言い難いので、人形としては傍流なのかもしれないけれど、とても興味深いものだ。
裃雛の説明パネル。
制作された時期は「江戸末期から昭和20年代頃」となっている。裃雛の流行期間について「江戸末期~大正にかけて」という記述と「明治~昭和初期」という記述があり、ちょっと振れがある。
特筆するポイントは、農家では毎年購入していた、という記述。初節句だけでなく、だるまのような縁起物でもあったのか。
山繭縮緬が使われているかどうかを見てみよう。
この資料室で確認できる最も古い裃雛は明治43年(1910)に贈られたもの。
裃は紙布で作られているように見える。
袖は化学染料で染めた縮緬で、脱色で花の模様が描かれている。
上里町の資料館でも明治時代の裃雛には山繭縮緬が使われていなかったが、ここも同様。
こちらは袖が山繭縮緬と思われるもの。
拡大したところ。
山繭の糸は何度か流行があり、昭和初期にも山繭縮緬の流行があったという。
裃雛が作られた時代の末期に山繭縮緬のブームがあり、安価な布が入手できたのではないかというのが現在のところの私の推測である。
しかしこうした布がどこから来たのかは、いまのところどうしてもたどることができていない。
ただ、この資料館では裃雛について、いままでより詳しい情報が得られた。6代続くという人形師さんにつないでくれて、話を聞くことができたのだ。それによると・・・
裃雛が作られたのは昭和初めまでで、主に市で売っていた。作神様や茶坊主などと理由をつけてありとあらゆる売り方をしたが、本当は雛人形を作る練習台だった。
裃雛の着物は木綿。雛人形としては木綿の衣装のお内裏さまは明治の初めに一部あったのみで、通常は西陣や桐生の絹織物が使われた。
裃雛の胴体部分の生地は練習用にどこからか安い木綿布を大量に仕入れていたのだろう。
裾は雛人形のための布ではなく、何かの半端裂で十分作れた。
・・・ということだった。やはり裃雛は人形師からみたらあまり良いものではなかったようだ。
とりあえず、今年の裃雛めぐりはこれでおしまいになりそうだ。
裃雛はあまり研究が進んでいないジャンルみたいで情報も少ないが、これからも引き続き注目ていてきたいと思っている。
(2023年03月19日訪問)