秋蚕の碑

尾高惇忠を顕彰した碑。

(埼玉県美里町木部)

国道254号線を児玉から寄居へ向けて走っていると、「秋蚕の碑」という看板が出ているのに少し前から気付いていた。

きょうは越生のあたりまでドングリを拾いに行くつもりなのだが、急ぐ予定でもないのでまずこの看板を入ってみた。

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国道から1kmほど入ったところにあったのがこの碑。

案内板を見ると、この碑を建てたのは深沢豊次郎という篤農家、碑の文面を書いたのは尾高惇忠(じゅんちゅう)である。

尾高惇忠は明治時代を代表する実業家、渋沢栄一の義兄であり、富岡製糸場の初代場長を務めた人物である。尾高家は渋沢家と共に、戊辰戦争の際に彰義隊を建軍して新政府と戦った。この戦いで、弟の平九郎を亡くしている。いわば新政府とは敵対する勢力だった。

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だが明治維新後、惇忠は渋沢栄一のとりなしで明治3年から富岡製糸場の設立に携わり、明治5年に操業にこぎ着けたときには製糸場長を務めた。

富岡製糸場が開業した当時、日本の蚕は春(5~7月)にしか生産できなかった。それは蚕本来の性質が一化性または二化性で、夏に産んだ卵がそのまま越年して翌春に孵化するからだ。

しかし桑は夏~秋にも葉を繁らせていることから、惇忠はもし蚕が夏~秋にも飼育できれば、生産量を2倍、3倍にできると考えた。

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蚕の卵を冷蔵することで孵化を遅らせるという研究はすでに幕末には長野県で始まっていて、それを知った惇忠はその手法を応用して秋にも蚕を飼育すること目指した。この碑を建てた深沢豊次郎は惇忠の理解者で、共に秋蚕の研究をした篤農家だった。

だがその当時、国内では輸出用の蚕の卵の品質が問題になっていて、政府は蚕種の統制を強めているところだった。あまりにも斬新だった惇忠の提案は理解されず政府には認められなかった。

そのような状況のなかで、惇忠は富岡製糸場の場長の立場でありながら無許可で蚕種を製造し、秋蚕の普及をはかった。それが問題視され政府から批判を受け、関係者が処罰されるに至り、明治9年、ついに惇忠は富岡製糸場長を辞任する事態となった。

その後、惇忠は銀行業で成功して蚕糸業からは離れてゆく。一方、明治政府は最終的に秋蚕を認めることとなり、現在に続く蚕の量産技術が花開いていくのである。

この地に、惇忠の秋蚕をめぐる顕彰碑が建てられたのは明治29年、惇忠が亡くなる5年前のことだった。

(2017年11月23日訪問)

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