国道254号線を児玉から寄居へ向けて走っていると、「秋蚕の碑」という看板が出ているのに少し前から気付いていた。
きょうは越生のあたりまでドングリを拾いに行くつもりなのだが、急ぐ予定でもないのでまずこの看板を入ってみた。
だが明治維新後、惇忠は渋沢栄一のとりなしで明治3年から富岡製糸場の設立に携わり、明治5年に操業にこぎ着けたときには製糸場長を務めた。
富岡製糸場が開業した当時、日本の蚕は春(5~7月)にしか生産できなかった。それは蚕本来の性質が一化性または二化性で、夏に産んだ卵がそのまま越年して翌春に孵化するからだ。
しかし桑は夏~秋にも葉を繁らせていることから、惇忠はもし蚕が夏~秋にも飼育できれば、生産量を2倍、3倍にできると考えた。
蚕の卵を冷蔵することで孵化を遅らせるという研究はすでに幕末には長野県で始まっていて、それを知った惇忠はその手法を応用して秋にも蚕を飼育すること目指した。この碑を建てた深沢豊次郎は惇忠の理解者で、共に秋蚕の研究をした篤農家だった。
だがその当時、国内では輸出用の蚕の卵の品質が問題になっていて、政府は蚕種の統制を強めているところだった。あまりにも斬新だった惇忠の提案は理解されず政府には認められなかった。
そのような状況のなかで、惇忠は富岡製糸場の場長の立場でありながら無許可で蚕種を製造し、秋蚕の普及をはかった。それが問題視され政府から批判を受け、関係者が処罰されるに至り、明治9年、ついに惇忠は富岡製糸場長を辞任する事態となった。
その後、惇忠は銀行業で成功して蚕糸業からは離れてゆく。一方、明治政府は最終的に秋蚕を認めることとなり、現在に続く蚕の量産技術が花開いていくのである。
この地に、惇忠の秋蚕をめぐる顕彰碑が建てられたのは明治29年、惇忠が亡くなる5年前のことだった。
(2017年11月23日訪問)