渋沢平九郎自決の地

振武軍幹部だった侍が自刃したと伝える場所。

(埼玉県越生町黒山)

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黒山三滝への入口に近い場所に、渋沢平九郎自決の地とされる場所がある。

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渋沢平九郎は、埼玉県深谷市の名家、渋沢家の出の武士。本名は尾高昌忠で、渋沢栄一の養子となって渋沢平九郎を名乗った。

渋沢家はもともと大名主で、在所である血洗島村の1/4の土地を所有する豪農だった。尾高家も下手計村の名主で、渋沢家とは親戚筋にあたる。

後に富岡製糸場の初代場長となった尾高惇忠は平九郎の兄であり、彰義隊(しょうぎたい)振武軍(しんぶぐん)を建軍し後に横浜で生糸の豪商となったた渋沢喜作は従兄にあたる。

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平九郎は飯能戦争を戦った振武軍に所属していた。地位はナンバー4だったようだ。

振武軍の部隊長は渋沢喜作、副隊長が尾高惇忠と、ほぼ渋沢家一党が采配していたといってよかった。

だた、幕末の趨勢はすでに決まりつつある状況の中で、振武軍は新政府軍の圧倒的な兵力の前に敗退、幹部たちは秩父方面へ脱出することとなる。

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振武軍幹部たちの逃走ルートは、現在の国道299号線だったのではないかと思われる。すでに追討部隊も川越、青梅方面に展開していて、秩父方面にしか退路はなかった。

平九郎は他の幹部たちとはぐれ、顔振り峠付近の茶屋に大刀をあずけ、農民を偽装して落ち延びようとした。いまに思えば、奥武蔵グリーンラインの尾根筋を通って堂平方面へ逃走すればよさそうに思うが、なぜか平九郎は山を下って越生へ向かった。

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越生方面には川越から残党狩り部隊が入っていたから、東へ向かうのは良い算段とはいえない。

おそらく平九郎はひとりになり、頼る人もおらず、死を覚悟して故郷の深谷を目指したのではないだろうか。

山中で敵に発見され応援を呼ばれ、小刀のみで応戦するがついに力尽き、この岩の上に座って自刃することとなった。

二十代半ばの若さでのあまりに心細い、無念な最期だったことだろう。

(2021年10月06日訪問)