生品神社で探していたブツが見あたらなかったので、すぐ近くに見えたお寺、東雲寺へと向かった。
寺の入口は農業用水の側道みたいなところにあって、車で進入していいのか心配になるが、奥にかなりの台数が停められる広い駐車場がある。
寺の入口にあった六地蔵堂。
虹梁が独創的。そもそもここは虹梁じゃなくて貫がくる場所でしょ? このフリーダムな発想はあれか? 天竺様を意識した造り?
案内板によれば、平安時代にこの辺りに新開氏という豪族があって、新開荒次郎という武人を輩出した。この寺にはその墓があるが、妻は隣りの大林寺に葬られていて、それぞれ男寺、女寺とも呼ばれる。
夫婦を別葬するのは新開氏のしきたりらしく、鎌倉時代になって徳島に転封になった後も、その風習を残しているそうだ。阿南市にある正福寺(男寺)と景徳寺(女寺)がそうだという。正福寺は行ったことあるけど、写真撮ったか思い出せない。
山門は三間一戸楼門。仁王などは元々なかったのじゃないか。
質素だけど堂々とした大きな門だ。
山門の右側には地蔵堂。
山門をくぐって右側には無縁仏群。
舟形の墓石が多い。かなり古い墓だと思われる。
山門をくぐって左側には「魚雷堂」。
やっぱりあった、ここでよかったんだ。
この魚雷はもともと国威発揚のために国民学校に設置されていたものが、昭和25年(1950)にこの境内に移築されたものだ。
国民学校は現在の小学校と中学校を合わせたような学校で、国民を戦争に向かわせるための教化装置といってもいいものだった。さすがに終戦後そのままにしておくわけにもいかず、寺に移設されたのだろう。
この魚雷は明治44年に造られた「44式2号魚雷」というもので、国内での設計製造に初めて成功した魚雷だという。
本体は鉄造だが、信管部分は銅製。
エンジン部分が見えている。
魚雷は内燃機関で推進する。水中で燃料を燃やすために魚雷のかなりの体積は空気を搭載することに当てられている。
スクリューは二重反転式。
侍がちょんまげに帯刀で闊歩していた明治維新からわずか40年でこのような高度な機械を製造し、日露戦争にも勝利したのだから明治ってすごい時代だったのだな。いまの日本は「失われた30年」という時間を過ごしていてこれから失われた40年を歩む可能性も高いというのに。
すぐ近くには、やはり国民学校から移設した慰霊碑がある。
これ、どう見てもカノン砲の砲身だよね。
日露戦争で鹵獲したものだという。
この墓地で、軽く新開荒次郎の墓所を探したけれどわからなかった。
澁澤という姓の墓石が目立つ。渋沢栄一の郷里はこの近くだ。
慰霊碑の横には、慧光童子の銅像。
台座はもと本堂に鬼がわらを使っている。
現在の本堂。
本堂の右側には玄関。
さらに右側には庫裏があった。
境内にはほかに大銀杏。
(2021年11月19日訪問)