神山中学校の横に沈下橋があるのを知ったのは、私が徳島に転居した年の9月だった。私はそのころ「神山町の寺社をすべて見る」という計画のもと、町内を走り回っていた。
神山町の中心部から近い神山中学校の敷地内に腰之宮神社という神社があって、その写真を撮っていたときに沈下橋があることに気付いた。
これはそのときの写真。神社の立地を説明するのに撮ったものだ。
私は建築が好きだったが、土木構造物は建築とは別ジャンルだと思っていたので沈下橋があっても積極的に写真を撮ったりしなかった。
橋の写真を撮るようになったのは、鮎喰川河口部のこんにゃく橋が廃橋になってからである。
この沈下橋は神山中学校、小学校への通学路だろうと思う。
学校は神山町の中でも最も日当たりがよく平坦な場所に建てられている。村の人たちにとって学校が大切な存在だったことがうかがえる。
しかし学校の敷地が鮎喰川の左岸だったため、右岸の中津や大久保という字からは通学路が遠回りになってしまった。おそらくこの字の人々が子どもの近道のためにこの橋を架けたのだろう。
橋は学校の近くだから、暑い季節などは下校する子どもたちが橋の上で涼みながらいつまでもおしゃべりをしたかもしれない。
神山町は売り家が見つかれば住みたいと思っていた場所だ。
徳島市街からは途中に深い先行谷があり都会の風もここまでは届かない。なのに村の中心部は先行谷を抜けた先の谷底平野にあって風景は広々として穏やかだ。三波川帯と秩父帯の地質上にあるからかどことなく秩父方面の風景と似ている。
きょうはもうこれ以上撮影できそうになく、町内の日帰り温泉でのんびりしようと思いながら、川面を眺めていた。
次に訪れたのは2009年8月9日の台風のとき。
沈下橋には水がのっていた。
通行止めの車止めはなく、橋のすぐ近くまで寄れる。
なんという猛々しい風景か。
現在は沈下橋の近くに文化橋という新しい抜水橋があるので、沈下橋が冠水しても通学に不便はない。
さて、この学校で注目すべきは写真の建物。西日本最大の寄宿舎といわれる「青雲寮」だ。
林業が盛んだった戦後、山には多くの人が住んでいて子どもも多かった。山奥では通学に毎日片道1時間以上かかるような場所も珍しくなく、徳島県の山間地の中学のいくつかには寄宿舎があった。
中学生といえばまだ子ども。親元を離れての共同生活はさびしかったろう。
青雲寮が建てられたのは昭和45年(1970)。閉寮となったのは平成17年(2005)。
のべ1,154人の子どもがこの寮で暮したという。
(2007年03月03日訪問)