水車小屋を探して、府殿地区へ来てみた。
ここも棚田の集落だ。
谷に落ち込むような急な斜面に棚田が作られている。
スダチなどに転作されることもなく、現在も水田として耕作されている田んぼが多い。
やっぱり水が張られた棚田は一番見ごたえがあるな。
稲が育ってくると、それはそれでいいのだけれど、純粋に棚田として観賞するには代かき~田植え直後のシーズンが一番だ。
府殿地区は日本の棚田百選に含まれていない棚田としては県内でも有数の棚田だと思う。
(令和版ポスト棚田百選に選定されている。)
水車小屋っぽいものがないかと注意深く走っていると、、、ありました!
怪しい物件。
府殿地区唯一の谷川の、川辺にある怪しい小屋。
よく見ると、水輪を取り付けた心棒が壁から突き出ている!
観光や補助金とは無縁の、本来の用途として作られた水車小屋だ。
さっそく覗いてみよう。
おあつらえ向きに扉が取れて中が観察できる。
内部は搗き臼╳2と、ひき臼╳1という構成。
このような歯車は心棒の回転を石臼の回転に変換するギヤなのだ。
この場所は標高500m近くあり、徳島県内で最も標高の高い場所にある水車小屋ではないか。
この水車については、実際に利用していたというおばあちゃんから話を聞くことができた。集落の4戸が共同利用する水車小屋だった。戦時中に工兵部隊にいた人が建てたという。
現在残っている水車小屋の上流側にも2ヶ所の水車小屋があったそうだ。
集落は川から離れているので、片道300mほどの山道を歩かなければならなかった。集落から水車小屋へ続く現在の舗装道路はかつてはキンマ道といって木材を運び出すソリのための枕木が並べられた細道だった。
一度に7升から1斗の米を運ぶのはお嫁さんの仕事で重くて大変だったという。
このおばあちゃんからは長い話を聞いた。村への嫁入りから、山での暮らしについて。もとは上勝でもかなり下流の正木の町の人だった。
嫁入りのとき現在の県道までは車が通れたが、途中で降ろされそこから先は歩いた。嫁入り道具は近所の人が担いで登った。結婚相手の顔も知らなければどこに家があるのかも知らない。キンマ道の枕木の上を歩きながら、ひとつカーブを曲がるたびに、もう着くのかもう着くのかと何度も聞き直したことを昨日のように覚えているという。現代でも府殿はそれなりの山奥だから、その当時としてはこの先に人が住めるのかというような奥山だったろう。
お姑さんは厳しい人で毎晩泣きながら暮らしたという。棚田はあっても白米を十分に食べることができず丸麦を半分くらい混ぜて炊いていた。子どもの学校のお弁当には恥ずかしくないように、白米が上の側に見えるように、麦を隠すように弁当箱に入れたそうだ。お姑さんは最後は寝たきりになり、その面倒も見た。お姑さんが亡くなるときに、初めて優しい感謝の言葉を言われ、すべての苦労が消えたという。いまではこの山里で静かに幸せを感じながら暮らしているそうだ。
私たちが、人の営みが美しいとかSDGsだなどといって眺めている棚田は、こうした厳しい暮らしの中で築かれたものなのだ。
(2003年05月24日訪問)