一身田の町並み

寺域の四方に堀を巡らす環濠集落。

(三重県津市一身田町)

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一身田(いっしんでん)という町へ立ち寄っていくことにした。一身田は巨大寺院の境内に子院や在家の町屋を取り込んで一体となった「寺内町(じないまち)」という性格を持った地区だ。

以前に一度だけ来たことがあるが夜だったので、車でひと回りしただけで、ちゃんとした時間に見てみたかったのだ。

見ごたえのあるお寺と町並みだと思うのだが観光客はまばらだった。山門前と寺の西側に大きな無料駐車場があるので、かなり気軽に立ち寄れる。

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「寺内町」は主に浄土真宗の寺を中心に中世に発生し、その特権を利用した自治的な集落となってゆく。浄土真宗が盛んな地域の近畿や北陸に点在していて、大阪の富田林や奈良の今井が有名。

これまでに当サイトで紹介している真宗寺院では、愛知県の勝鬘寺本證寺上宮寺などが寺内町を持ったとされている。でもこの3ヶ寺の寺内町は制度としてはあったかもしれないけれど、きっちりと「ここが寺内町」と線引きできる表層的な構造が感じられなかった。

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一身田は寺内町であると同時に、集落の防衛のための堀を集落の周囲に巡らす「環濠(かんごう)集落」として性質も持っている。そのため一身田の寺内町は「ここから、ここまで」といった境界が明確という点が見どころといえる。

この地図は町内の「寺内町の館」という資料館にあった江戸中期の絵図に水域に色を加えたもの。比率は正確ではないけれど、地割りは現在もほとんど変わっていない。この町がどのような構造をしているかがわかりやすい。

町は堀に囲まれていて限られた橋からしか立ち入れない。橋の内側には柵と番所が置かれ警備されていた。もちろん堀といっても平城(ひらじろ)の外堀みたいなものではないから、武装集団の総攻撃を防ぐことはできないが、コソ泥やスリといった小悪党を心理的にブロックするには十分だったろう。結界を作ることで自治的特権を明確にする、現代のアメリカのゲーテッドコミュニティに近いかもしれない。

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現代残っている堀は幅が狭く、地形図や道路地図上ではわかりにくいが、GoogleMapsの航空写真で見ると点線の範囲が環濠であり、全周が残存している。

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古地図で山門の正面に描かれている反り橋。ここには東西に小さな川がいまもある。川を渡ったところの柵は、復元かもしれないが、とにかく寺内町に入るにはこのようなゲートを通過しなければならなかった。

当サイトでは、(寺や住宅ではなく)集落に入るための門を「里門(さともん)」(造語)と呼んでいるが、これはその一例だ。

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こちらは東側の堀にかかる栄橋。

江戸中期の古絵図に対して、堀の位置が25mくらい東へ付け替わっている。

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古絵図で東門が描かれているのはこの商家の左の横断歩道の先のバス停があるあたり。

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こちらは西門。

江戸中期の絵図ではこのあたりに西門があったように見える。でも文化財の案内では、この場所より少し南にいったあたりが西門だったようだ。

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西側の堀は現在はとてもせまく、またげるほどの幅しかない。

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町の北半分は塔頭が並ぶ寺町なのだが、南半分には在家の人々が暮らす町屋が並んでいる。

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格子戸や袖卯建のある古い商家もまばらにあるが、ここも観光客はあまり歩いていない。

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南東の門。

この門から外側はかつては寺の門前町だった。京都方面から伊勢神宮へ参る街道が通っていたため、25軒の茶屋がある大きな遊廓街だったという。

いまは静かな住宅街だ。たぶんちょんの間とかもない。

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南側の環濠。

(2024年12月13日訪問)