付近は住宅地になりつつあるが、寺の周囲はうっそうとした杉木立になっている。参道も杉並木だ。
太鼓橋を渡ると三間一戸の楼門がある。市指定文化財で登楼が可能だ。
この寺にはこんな伝説がある。
対泉院は明治44年の火事で、山門と鐘楼をのぞいて全て焼け落ちた。この火事の火元となった家に、その当時他家に養子に出ていた中村松太郎という男がいた。松太郎は実家が火元になったのを知り一念発起して宮大工となる。
そして対泉院四代の住職に仕えて、寺の建物を再興した。悲願がかなって寺の再興がなったのは、昭和25年のことだったという。
明治時代以後に実際に起こったとされ、語り継がれる物語を「現代伝説」と言うが、この対泉院の物語は、立派な現代伝説だろう。
信徒会館。
ただし対泉院自体は、率直に言ってかなり富裕な寺である。
境内のトイレなどもとてもきれいだ。
本堂の左には池があり、大賀ハスが植えられている。
大賀ハスというのは、ハスの研究家大賀博士という人が、千葉県の縄文時代の遺跡から発掘されたハスの種を発芽させたとされているハスだ。“古代のハス"などと言われて日本の各所で育てられているが、私は大賀ハスエピソードについてはかなり懐疑的。
なんと、登り降りの階段が別々になっている。
楼上に仏などが安置されていないものの、本サイトのメインテーマ「巡礼空間」にあと一歩の物件だ。詳しく見てみよう。
おそらく除夜の鐘を撞くときのために作られたのだろう。通常、袴腰鐘楼で除夜の鐘を撞くときは楼上に7~8人の参拝者を登らせる。階段は一方通行として鐘を撞き終わった人が3~4人たまると階段を降りさせ、新たに3~4人を登らせる。その間、常に楼上に3~4人が撞く順番を待っているようにキープして、鐘の音が途切れないようにしなければならない。
列に子供やお年寄りがいれば、スムーズに誘導するのは大変である。その点、このように登り降りを別のルートにすれば、絶え間なく参詣者をさばくことができたいへん合理的だ。
ひとつ前の写真が登り口、この写真が下り口ではなかろうかと思う。急な階段は上るのより降りるのが難しいから、傾斜の緩い外階段は下りだろうという推理である。
(2000年10月05日訪問)