脇町付近の地形図に、以前からどうにも気になっている場所がある。それは「船久保」という字にある一軒家。
これは何なのだろう。いや、何なのって、人家なんだろうけど・・・。
でも、山麓の曽江谷川から標高差200mはあり、車道がないのだ。まさか、毎日200m近い山を昇り降りする人家があるのか?
きょうはこの船久保を確かめるために出かけてきたのだ。途中、岩津の河港なんかも寄り道したけれど。
船久保の全景。
矢印のあたりが人家のある鞍部だと思われる。
まず、脇町方面からは洗い越しの砂防堰堤で曽江谷川渡り、船久保の登り口へ。
ここに車を止めて徒歩で向かうことにする。
斜面はコナラを中心とした明るい森。船久保への道はすぐにわかった。
でも道に枝が伸びていて、頻繁に人が行き来している様子ではない。
山道はあまり急ではなく、手押し式のクローラー式動力運搬車なら押して通れそう。もし人が居るならプロパンガスのボンベくらいはそれで持っていけるだろう。
つづら折りのカーブをいくつか過ぎ、山頂の平坦部へ入ると、急に薄暗い林になった。
船久保に到着。
家はなくなっていた。瓦が散乱するばかりである。
周囲は地形図によれば畑や果樹のはずだが、スギと孟宗竹の林になっている。きっと住人がここから出ていくとき、畑を杉林に変えていったのだ。いつかこのスギを伐採してお金にするつもりで。
スギの育ち具合を見るに20~30年くらい前の出来事だったろう。
建物は残していったのが完全に倒壊して、原形はほぼ無くなっていた。
でも、洗濯機や冷蔵庫といった家電製品の残骸は見当たらないので、電気のない生活だったんじゃないかという気もする。
瓦だっていったいどうやってこの山の上まで運んだのか。当時あの狭い道を牛馬で運べたとは思えず、人力だけで運び上げたのか。
いろいろと、現代人には想像ができない。
徳島には、家まで車を乗りつけられず、山道を登らなければならないところに住んでいる人がけっこういて、そういう家を訪ねたこともあるけれど、ここはちょっと別格だ。
地図で、人家の北側に標高320mの山頂がある。その山へは登ることができる。何もないが。
山頂付近に山の神と思われる小祠があっった。
家の近くには墓地があった。
墓石が寝かせてあるのは、墓じまいをしたという目印である。つまりもうここには墓参りで来ることもないのだ。
墓石はけっこうある。
墓石のひとつには明治三十?年の文字がある。
もと家があった前には沢水がたまって水たまりができている。
この水たまりは「ヌタ場」になっていた。
つまりシカやイノシシが泥浴びをするプールである。泥と一緒にダニやノミなどの寄生虫を落とすという。
写真右奥の木の樹皮が剥けている。泥浴びをしたイノシシが背中をこすりつけた跡だ。
泥をなすりつけた跡。このような獣の行動を「ヌタ打ち」という。「のたうち回る」の語源だ。
船久保は人が去ってあと、動物たちの住み処となっていた。
2021年現在、国土地理院の地図に人家の記号はもうない。
(2005年03月19日訪問)