「吉良町」と聞いてまず思い浮かぶのが、忠臣蔵の敵役、吉良上野介義央。その菩提寺がここ華蔵寺である。
周辺は三河平野の東端にあたり、ここより西は水田地帯、ここから東は丘陵地帯という境界に寺はあり、本堂の裏手には小さな丘を背負っている。
長い参道の途中に薬医門がある。
薬医門を過ぎると五葉松のような樹の短い並木になっていて、急な石段がある。
石段を登ったところには棟門がある。
棟門は通常は通用門などに使われる門であり、寺の中心の参道に作られる例は珍しい。
この棟門の屋根の形状も変わっている。切妻の屋根を横から見たときの屋根の断面(妻)の部分にある化粧板を「破風」と言う。切妻の破風は「人」の字のように斜面の中ほどがくぼみ、端が反り上がるようにカーブしているのが普通である。そのような屋根のカーブを「てり」と言う。ところがこの屋根は面の中央が膨らむようなカーブになっている。このようなカーブを「むくり」と言う。
「むくり」と「てり」が連続した破風を「唐破風」と呼び、妻が唐破風になっている門は形態上「平唐門」と呼ばれる。この門の破風は「むくり破風」なので平唐門に準じて名称を付けるならば「平むくり門」ということになろうか‥‥。
棟門を入った右には朱塗りの鐘堂がある。
棟門の屋根との比較で言えば、この鐘堂の屋根のようなカーブが「てり」である。
棟門を入った左には信徒休憩所。
休憩所の裏手には東司があった。
本堂は外見は方丈風。
本堂の右側には玄関と庫裏。
本堂の左側には御影堂という堂があった。
霊廟であろうか。
御影堂の前には吉良義央の墓がある。
この日も線香やロウソクが手向けられていた。地元では吉良義央は慕われているようだ。
近くの看板にも、吉良義央が悪人に描かれるのは心外で実は地元では名君であるとしきりに書かれていた。刑事告発されるような国会議員だって、地元に帰れば橋や道路をつくってくれる先生になるわけだから、いくら地元では名君なのだと書かれてもあまり説得力は感じられない。
とはいえ、権力を笠に着て威張り散らし、手続きとか格式ばかりにこだわる官僚というのはいつの世にもいたはずで、その程度のことで刺されそうになったあげく、浪士に襲われた義央には同情の余地はあると思う。
境内の左手の少し離れた高台に経蔵がある。この経蔵は吉良義央が寄進したという伝説があるそうだ。
(2001年11月23日訪問)
福岡県の仏像 (アクロス福岡文化誌 8)
単行本 – 2014/3/30
アクロス福岡文化誌編纂委員会 (編集)
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