知多湾を東側へ渡り、本日最後の訪問予定地乾坤院へと到着した。寺は郊外の里山地帯にあるが、道路は広くよく整備されているため、隠れた名刹という風情はない。
まだ4時前だというのに、すでに日は西に傾いている。里山は残照の黄色い光線に照らされて、秋の終わりの色彩をいっそう際立たせていた。
この寺は大きな寺だとは調べて知っていたのだが、行ってみたら回廊があったのでびっくり。回廊のある地方の禅院は、私が一番好きな寺なので、幸せいっぱいになる。
さて、回廊については何度も書いているのだが、この寺の伽藍構成は典型的なので、繰り返してみたい。
禅宗の伽藍は一般的な教科書では、仏殿、法堂が直線的に並ぶとされているが、むしろそれは例外で、左図のように本堂の前の中庭を囲むように、左に坐禅堂、右に庫裏、手前に楼門、楼門の右に鐘楼、東司、湯屋があり、それらを周回可能な回廊で結ぶというのが典型的な配置なのである。
このような伽藍構成は黄檗宗の本山に見られるので、中国からの移入だと考えられるのだが、臨済宗、曹洞宗の禅宗にも普遍的に見られ、必ずしも黄檗宗の特徴とは言い切れないのである。また、教科書的な七堂伽藍の説明ではほとんど無視されている袴腰鐘楼が決まって楼門の右に配置されるといった類似性も見逃すことはできない。
総門は三間一戸の薬医門。緒川城の城門を移築したものだそうだ。
このように三間の左右が板ではめ殺しになっている薬医門は、武家屋敷などによく見られるタイプのものである。ときどき寺でも見かけるが、基本的には仏教建築ではないのだろう。
総門を過ぎると左右に池がある。中央の橋は白字橋という名前のようだ。このような池は放生池と言って、禅宗の伽藍の構成要素のひとつである。
放生とは鳥や魚をあらかじめ捕らえておいて、それを放すことで功徳を積むという儀式である。厳密に言えば、捕らえられた鳥や魚を買い取って放すわけで、日本の仏教には今一つなじまないのか、禅宗伽藍の放生池も名前だけで、ここで放生を行うということは実際はほとんどないようである。(海外の寺では門前で物売りが鳥などを売っているのでそれを購入して放鳥するというのがある。)
山門は二重門だった。時代は江戸末期くらいだろうか。
楼門の左右に回廊が見える。
だが残念なことに回廊と楼門は接合していない。回廊マニアの私としてはかなり評価が下がる造りである。だが実際にはこの種のヌルい回廊寺が多いのも事実なのだ。
回廊の内部は物置などに転用されている場合が多いのだが、この寺ではきれいにしてあった。
中庭から二重門の裏側をみたところ。
本堂は背の高い銅板葺きの寄棟造り。このくらいの規模だと入母屋造りが普通なのだが、比較的最近まで茅葺きだったのかもしれない。
もしそうだとしたら、茅葺きの屋根としては大きい部類だ。
坐禅堂。
中庭が石庭風になっているので、坐禅堂のほうに気楽に近寄ることはできない。
坐禅堂の方から庫裏をみたところ。
庫裏はとても新しく、まだ築1~2年という感じだ。
庫裏の前には竜宮門風の鐘楼がある。入口の伽藍配置図によれば、鐘楼は回廊の外の離れたところにあるのだが、庫裏を改築するのと一緒に場所を移して再建したのだろう。
前の位置よりも適切な位置に再建されたと言っていいと思うが、袴腰部分を四方に通り抜けられるようにしたのはいかがなものだろうか。
庫裏を大きく造りすぎたので、回廊を折り曲げて庫裏に接合することができなかったのだろうが、回廊寺の最大の面白みである空間の分離性が薄れるという意味で、マイナスだと感じた。
本堂の裏手には堅雄堂という堂がある。岡崎城主が寄進したもので、位牌堂の一種と考えていいだろう。
山門の前には水盤舎(左)と地蔵堂(右)。
総門の外には宇宙稲荷大明神という鎮守社があった。
乾坤院は入口の伽藍配置図を見たときは、回廊があるので躍り上がったのだが、実際には回廊の接続度が弱く、建物もまだピカピカで雰囲気がないので、正直なところ手放しで褒めちぎれる寺ではなかった。特に他の堂宇への投資にくらべて、回廊の整備がおざなりなのが気になる。
一応、今日の本来の見学予定はこれでおしまいだ。これから宿を探しに半田市へ向かう。
(2001年11月24日訪問)