七輿山古墳

羊太夫の妻を葬ったという伝説のある巨大古墳。

(群馬県藤岡市上落合)

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群馬県は古墳の多い土地だが、七輿山(ななこしやま)古墳は大きさで県内五指に入るであろう前方後円墳だ。全長は145m。全国レベルで見ても巨大古墳といっていい。

もっとも100~150mサイズの古墳ともなると、平地から目視しただけでは大きさがつかみにくい。周囲や墳丘に樹木が茂っていたり、寺社の一部になっていたりしたら、ほとんど大きさがわからないこともある。ところが、ここ、七輿山古墳は周囲に空堀の周濠(しゅうごう)を巡らせているため、どこからどこまでが墳丘なのかがわかりやすく、巨大感がつかみやすい。

さらに北側からみると、陪塚(ばいちょう)と思われる小さな塚がある(上写真中央)。よく私は、寺の判定基準として「塔頭(たっちゅう)(=付属寺院)が2つ以上あったら名刹」という判断をするのだが、古墳の場合に寺の塔頭に相当するのが陪塚である。つまり陪塚とは、巨大古墳に付属した副古墳のようなもの。これがあれば、とりあえず「名古墳」といってよいのではないか。

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古墳の周りにある堀を「周濠(しゅうごう)」という。この堀が現在も確認できる古墳は、ポイントも高くなる。特に私が好きなのは、整備されて周濠が綺麗に復元された古墳ではなくて、堀の形が田畑や道路の地割となって残っているパターンだ。

群馬県にはいくつかそういう古墳があって、七輿山もその一つなのだが、なにやら公園化しつつあったのが気にかかる。

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東側(宗永寺側)から見たところ。写真を見るとこちらが前方部みたいに見えるが、実は後円部。

この後円部の中腹はけずられていて、五百羅漢が安置されている。おそらく隣の宗永寺のものではないかと思う。

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その五百羅漢なのだが、一つ残らず首が落とされている。中高時代に、自転車で訪れたことがあるのだが、日暮れ時にこの古墳に登るととても薄気味悪かったのを覚えている。

七輿山の名前は、この地方を納めていた豪族の羊太夫が朝廷に謀反を疑われて攻められたとき、七つの輿に乗っ落ちのびた妻や子が、ここで自害したことに由来するという。そんな伝説も不気味さを増幅させる。

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明治時代の廃仏毀釈が原因だったのかとも思うが、子供ごころにはタタリとか呪いがありそうなオカルトスポットに思えたものだ。

とにかく徹底して首が落とされているのは、いま見てもその破壊の執念に恐ろしいものを感じる。

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墳丘には自由に登ることができる。

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鞍部。

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前方部。

下写真は南側から見たところ。

周濠は2重だったという。

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(2008年12月30日訪問)

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