交水堰

交水社という製糸工場の取水堰だったという。

(群馬県前橋市住吉町2丁目)

前橋市の中心街を流れる広瀬川。おそらく、中世以前は古利根川の流路のひとつだったのだろう。現在は非常に整備が進んでいて、巨大な用水路となっている。

「広瀬川」というと「青葉城恋歌」に登場する仙台市の河川のほうが知名度が高いかも知れない。前橋市の広瀬川は、文学においては詩人、萩原朔太郎の詩の中にわずかに描かれている。

その2篇を紹介しよう。

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廣瀬川白く流れたり
時さればみな幻想は消えゆかん。
われの生涯(らいふ)を釣らんとして
過去の日川辺に糸をたれしが
ああかの幸福は遠きにすぎさり
ちひさき魚は()もとまらず。

『純情小曲集』(1925)より

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物みなは歳日(としひ)と共に亡び行く。
ひとり來てさまよへば
流れも速き廣瀬川。
何にせかれて(とど)むべき
憂ひのみ永く殘りて
わが情熱の日も暮れ行けり。

『宿命』(1939)より

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私は前橋で生まれ育ち、高校卒業とともにこの街を離れた。朔太郎のこの2篇は自分の青春ともオーバーラップするところもあって、味わいもひとしおなのだ。

その広瀬川のほとりを少し散策してみよう。アーケード街、弁天通りの北の横丁にある、レストラン「ポンチ」。本店は大正時代の創業といわれ、前橋が製糸で繁栄した時代に、糸繭商たちが集うモダンレストランだった店である。私の子供時代も、外食といえばこのレストランだった。

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ポンチの反対の角にある生花店「カネコ種苗」。

もしかしたら、この古ぼけた生花店は日本最大手の種苗会社「カネコ種苗株式会社」の創業の地ではないのかな。いまでは年商500億円以上、東証二部上場の立派な会社になっている。

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弁天通りの入口から広瀬川を下流方向に歩くと、川が斜面を勢いよく流れ落ちている場所がある。

これは水位を上げて用水路に取水するための堰である。名前は「交水堰(こうすいぜき)」あるいは、「十五本堰」という。下流に十六本堰という堰があることから、広瀬川には上流から連番のついた堰があるのだろう。

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大量の水が轟音をあげて流れ落ちる様子は、見ていて怖いくらいだ。

堰の下では水が白く泡立っている。朔太郎の詩に出てくる「白く流れたり」という表現はこの場所のことだという説もある。

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「交水堰」の名前は、このすぐ下流にあった製糸工場「交水社」に由来するものだ。

交水社は明治10年に設立され、昭和35年まで続いた製糸場だった。場所は諏訪橋の北東、現在は市営の立体駐車場がある一角にあった。

写真の奥に鉄格子が見える。この部分から用水に取水していたのではないかと思われる。

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製糸工場では、繭をお湯で煮たり、繰糸機でも水に浸した状態で糸を作るので、大量の水を必要とする。もちろん、明治時代には水車を動力として機械を動かしたこともあっただろう。

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「交水社」の名前は、交水堰の北側にあるプールバーに残っている。

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そのプールバーの前にある歩行者用の橋。

手すりの欄干が波のような模様になっているのは、生糸の「カセ」をかたどったものだ。また柱は、生糸を揚げ返すときに使う「大枠」という糸枠のデザインになっている。現代の大枠は六角形だが、古い時代には四角形の大枠があったことは、明治5年に出版された『養蚕仕法説諭録』の図にも確認できる。この橋のデザインはかなり考証が凝っていると思う。

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近くの街路灯も生糸のデザインになっている。

凝っているのは、この左側のオブジェ。これは「提糸(さげいと)」という束装の方法で、生糸のカセを俵のような形に複雑に結束したものだ。これも明治以前のごく古い生糸の荷姿なのだ。ちょっと、これなどはよほど糸に詳しい人じゃないと、何のオブジェなのかわからいのではないか。

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交水堰の近くにある、水車。

動力で水をかけて、いっさい仕事をしないという、私が嫌いなタイプの水車。これが作られたのは40年近く前で、そのころからこんな不毛なものを作っていたのだな。

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プールバー交水社の東側の駐車場は、もと守矢製糸という製糸工場だった。

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駐車場の表札にその名前の名残がある。

(2015年06月30日訪問)

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