周防阿弥陀寺。旅の終わりのところで、またまたすごい寺に来てしまった。
鎌倉時代初期に重源が東大寺再建のために下向したとき創建した寺で、東大寺の別院である。戦国時代までは東大寺の僧が住職を任じられたという古刹。
重源にゆかりの寺の例に漏れず、この寺にも石風呂がある。伽藍配置図は堂宇の形状の再現性は高いが、位置関係は参考にならない。
山門の手前にある地蔵堂。
タイル張りRC造で、日本の仏教建築ではあまりないスタイルだが、地蔵菩薩の雰囲気にはフィットしていると思う。
山門は三間一戸八脚門。軒が深く控え柱があるため、奥行きが4間のように見える巨大な門。
仁王像はあったが金網が細かく、写真は撮れなかった。寄木造で鎌倉時代の作とされ、国重文。
山門を入った右側には石風呂の遺構がある。
入り口は狭いが中は広くなっていて、3名くらいは入れそう。
これ以外に、現役の石風呂が別にあるのだ。すごく風呂の充実した寺!
さらにこの寺には湯屋もある。湯屋とは
戦国時代に灰燼に帰した寺は江戸初期(1681年ごろ)に再建に着手され、この湯屋が最初に完成したのだという。
浴室は覗けなかったが、平面図によれば石製の湯船に、竈から湯をひしゃくで酌んで流したようだ。このような入浴方式を「
現存する東大寺の湯屋などから類推するに、蒸し風呂の一種だったのだろう。
竈側は見学できるようになっている。
竈がすすけているが、年1度、7月の開山忌にいまでも湯浴みをしているという。
こちらは、現役の石風呂。
「湯屋」が湯浴み可能な浴場を意味するのに対し、「風呂」はサウナのことである。
毎月第1日曜日にいまでも風呂を焚いている。入浴料は300円。
この日は第1土曜日だったため、薪を運び入れるなどの準備をしていた。
石風呂の中の様子。
「風呂」の語源は「
休憩所もすごくいい味を出している。
石風呂の休憩所はこうでなくちゃ!というくらいに、研ぎ澄まされた調度品の数々。
風呂の横にはなぜか水車小屋があった。
たぶんもともとあったものではなく、単にこの場所に水車作れそうだよね、という理由で作られたものだろう。
さて、ここまではまだ寺の外側を紹介しているに過ぎない。
ここから石段があり、いよいよ境内へと入って行く。
石段を上り詰めたところに四脚門がある。
寺のメインの門は規模からしてさっきあった八脚門だろう。したがって八脚門は機能的には「山門」である。山門を過ぎてから境内を区切るためにある門は「中門」と呼ばれる。
伽藍配置図にもこの門は「中門」とあるので、この理解は間違っていない。
中門を入ったところには本堂。建立は1731年。
本堂の右端にはなぜか玄関がある。
玄関は一般的には、客殿などへ賓客を上げるための入り口である。あるいは庫裏への入り口になっている場合もある。そのため多くの寺では、本堂⇔玄関⇔客殿/庫裏という構成になっている。
だがこの寺では庫裏は離れた場所に建っており、玄関だけが本堂の軒下にめり込むように作られている。不自然な造りと言っていいと思う。もしかしたら、この右側に庫裏を作る予定だったのか?
本堂の左奥には護摩堂がある。
そのさらに奥に見える白い壁の建物は位牌堂。
本堂の左には池があり、その池をはさんで方丈(?)がある。
方丈と思われる建物にも本堂とは別に玄関が付属している。
方丈の裏手には庫裏が接続している。
これは本式の庫裏ではなく、住職の住宅というような意味での庫裏である。
今度は本堂から右のほうへ行ってみる。
最初にあるのは鐘堂。
その横には、、、なんだこれは??
石庭と言っていいのか? いや、言ったらだめだよね。
これを庭とするなら、浄土庭園ならぬ「世紀末庭園」と名付けたい。造園というより工事現場みたいな荒くれた風景だ。
その荒ぶる風景の中に奥の院と思われる堂があった。
その背後は石で偽装した砂防ダム。
これじゃコンクリ打ちっ放しの砂防ダムのほうがむしろオシャレじゃないか? たまに砂防ダムに丸太を貼り付けたりして修景しようとするものを見るが、修景といいうより破景としか思えない。
「自然素材を貼り付けたから、自然に溶け込むでしょ?」っていう子どもじみた企画はセンスがなさすぎる。
そのほかにもこのエリアにはたくさんの堂宇が点在している。
これは宝物収蔵庫。
石鎚権現堂。(?)
開山堂。
開山堂の右側には水垢離場がある。
瑠璃の滝という名称。
さらに奥に行くと、念仏堂、、、
ほかに経堂があった。
とにかく堂の多い寺だ。こんな堂の多い地方寺院を見たのは久しぶりだ。これでも掲載枚数の関係で省略した建物や仏像もある。
あまりに堂が多くて集中力が途切れそうになるが、伽藍配置図に載っていない堂もけっこうあり、そのとき記録を怠るとあとで名称が判らない堂が出てくるので要注意だ。
(2003年09月06日訪問)