東光寺

二重門、重層仏殿、回廊のある巨刹。

(山口県萩市椿東)

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萩市に到着。これから萩市でいくつか寺を見ていく。

最初に訪れたのは市街の東部の山並みのふもとにあった東光寺という寺。遠景で巨大な二重門が見えてきて期待も高まる。

萩を治めた毛利家の菩提寺で、鳥取の興禅寺、仙台の大年寺とともに、黄檗三叢林といわれる。

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総門は禅宗(特に黄檗宗)でときどき見かける三間一個の四脚門。この門を何と呼ぶかは以前から懸案なのだが、ぼちぼち決めてもいいのではないかと思う。

今回文化財のガイドに「段違いの切妻屋根」という表記があった。だとすればひとつの案として「段違(だんちがい)門」が候補に挙げられるだろう。

このような屋根は禅宗の門以外では山梨県の民家に見られ、それは「切破風(きりはふ)造り」と呼ばれる。形状的にはその名前がドンピシャなので「切破風門」という案もある。

だが「切破風造り」は山梨の民家を表わす専門用語としては妥当なのだが、語感にかなりの違和感がある。なぜならこれは「破風を切った」というより「(むね)を切った」という形状だからだ。破風を切るというと、当サイトではベーハ小屋の屋根の形状で使うこともあり、あれこそが破風を切ったというのにふさわしい形状であろう。

棟を上下方向に変化させるという屋根の作りかたは、別の観点の専門用語で「落ち棟」と表現できる。それに従えば「落棟(おちむね)門」である。では「落ち棟」の語感はどうかといえば、大棟に対して一段下げた棟というような意味あいで、下段側の屋根を表わす言葉だというのがひっかかる。どちらかというと、棟の一部を高く上げたという意味の言葉が欲しいところだ。しかし「棟を上げる」は「建築物の骨組みが完成する」という別の意味になるので使えない。

棟を高くするという形容詞に着目すると「棟高(むねだか)門」や「高棟(たかむね)門」があるが、「棟高」は建物の高さの意味だからダメ。「高棟門」はかなり魅力的な造語だ。だが「高い棟」や「高くした棟」という語感となり、「棟の一部だけ(◦◦◦◦)が高い」という形状を伝え切っているとはいえないところが弱いか。

ほかの言い回しとしては専門用語ではないが「棟を切り上げた門」という言い方ができる。「切棟(きりむね)門」あるいは「棟切(むねぎり)門」としたいところだ。だが「切り棟」は「切妻」の同義語だし、「棟切り」は家を取り壊すという意味だから不適切である。残りの漢字を拾い集めれば「切上(きりあげ)門」となる。

ここまで挙げた案のなかで、他の語義とかぶらず、誤解も少なそうな用語は「切上門」であろうかと思う。しがたって、当サイトではこのような門を今後「切上門」と呼ぶことにしたい

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総門の右隣には円福院という扁額のついたお堂があった。

いまはお堂の他は更地になっているがここはたぶん元は塔頭寺院だったのだろう。

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総門を過ぎると左側に宝篋印塔。

江戸後期くらいか。

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正面に荘厳な二重門が見えてきた。

三間三戸の門としては最大の規模の門であろう。

江戸後期の建築で国重文。ちょっと大盤振る舞いじゃないか。

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巨大化した二重門によく付属する「山廊」というパーツ。山門の階段室の機能をもつ建物だ。

山廊が付属する二重門で、参拝客が楼上に登れる門は私はこれまで見たことがない。よって、山廊とは「登らせないための設備」だと思っている。

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もっとも、参拝客が登れる二重門というのもめったいないのだが。

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山門を過ぎてしばらく進むと左手に鐘楼がある。

これも特異な構造で国重文。

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参道の正面には仏殿。つまり釈迦牟尼物を祀った堂だ。江戸前期の建築で、やはり国重文。これほど立派な仏殿は日本国内でも数えるほどしかない。

扁額には「大雄宝殿(だいゆうほうでん)」の扁額がある。中国の寺院で仏殿に相当する建物の名前だ。国内では黄檗宗の本堂でよくこの名前が使われる。

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大雄宝殿の中の様子。

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大雄宝殿から右側には渡り廊下が延びていて、そちらで内庭のような空間を作っている。

これまで何度か紹介していきた「妙応寺型回廊」はあくまでも伽藍の中心線にシンメトリーに回廊空間を作り出すものだった。だがこの寺は、仏殿の右側に回廊が付いているのだ。

そしてその回廊の内部へ入るための中門は存在せず、回廊を突き抜けて中庭へ進入する。その通路のところには位牌堂があった。

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中庭側からみた位牌堂。

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中庭の奥には方丈と思われる建物がある。

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回廊好きにはたまらない風景。

仏殿の横に回廊空間が作られるという明確な事例は他には思い出せない。

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回廊の中にあった魚板(ぎょばん)魚梆(ぎょほう)とも)。

木魚の原形で、修行僧に時間を知らせるために打ち鳴らしたドラムである。

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仏殿の裏には毛利家の墓所があった。

(2004年05月02日訪問)

福岡県の神社 (アクロス福岡文化誌 6)

単行本 – 2012/5/1
アクロス福岡文化誌編纂委員会 (編集)

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