古墳を探して工業団地内を行ったり来たりしている。
本当にこんな場所に古墳があるのか? もう取り壊されて工場用地になっちゃってるんじゃないのか?
そんな不安を抱き始めたとき、広い公園にたどり着いた。心配は杞憂におわった。
公園は1ヘクタール弱の広い公園でその一角に目的の古墳があった。
だがそのイメージは一般的な古墳とはかなり違っていて、あえていえば奈良の石舞台古墳のような感じ。石室の石組みだけが露出しているのだ。
この場所にはかつて若小玉古墳群という古墳群があり、40基以上の古墳があったという。昭和9年から始まった土地改良で、古墳を削り取って沼の埋め立てに利用することになった。八幡山古墳もその際に破壊されたのだが、途中で村長が保存を決定し、完全な撤去は免れた。
ただその際、墳丘はすべて取り去られ、石室の石材だけが残土のように集められて積み上げられ、放置された状態になった。
工業団地の造成が終わり、昭和54年になって石室が現在のように復元された。
現在の墳丘もあとから造成したものだ。もとは直径80mの巨大円墳だったという。
なんと言ったらいいのか・・・昭和時代の古墳の扱いってホント雑だったよね。
かといって、北関東あたりは古墳群も多く、それを全部残すとなったら、何も開発できないという状況だったのかもしれないけれど、この古墳群も発掘調査することなくすべて壊されたのだ。
土日の10~16時は説明員さんがいて、石室の中を公開してくれる。
着いたのが時間ぎりぎりの16時で施錠しつつあったのだが、もういちど解錠して中を見せてくれた。
石室は約15mの長さが復元されていて、内部は羨道、前室、中室、玄室と細かく分割された複雑な構造。
前室には石祠がおかれていた。破壊前には石室内に八幡社が祀られていたため、八幡山古墳と呼ばれるようになったそうだ。
前室から中室を見る。
中執から玄室の入口を見る。
それぞれの入口にはまるで扉のような造形になっている。
玄室。
奥壁が円弧を描いた精密な構造。築造されたのが西暦600~650年ごろと考えられていて、こうした精緻な石組みができたのだろう。こういう石室、他では見たことがない。
ただ、現在の石が破壊前の実物なのか、図面やスケッチなどを元に現代の石工が作ったものなのかはよくわからなかった。
天井石などの大きな石はたぶん破壊前の実物だろうと思う。
ここまでドーム状の石積みをする技術と石材への理解があったのに、石工がアーチを発明できなかったのは不思議だ。あと一歩だと思うんだが。
アーチとかトラスって何で日本では発明されなかったのかね。
見学時間が遅かったので長居せずにすぐ退出した。
公園の古墳以外の設備を見てみる。
この公園にはかつてかなり面白い人研ぎの滑り台やグローブジャングルがあったようなのだが、それらは取り壊されて味気ないユニット遊具があるだけだった。
タラップが90度分の太鼓雲梯なので小さい子どもには楽しめそうにない滑り台だ。
遊具はほかに平凡なジャングルジムとベンチ。
公衆便所と水飲み場。
万葉集に収録された
夫が足柄峠で袖を振ったら家にいる妻に見えるだろうかと歌ったのに対して、夫の衣をもっと濃い色にそめておけば峠にいる夫が見えただろかとこたえたというもの。
足柄の御坂に立して袖振らば
家なる妹はさやに見もかも
色深くせなが衣は染めましを
御坂たばらばまさやかに見む
夫婦がこのあたりに住んでいただろうという推定で、昭和18年に指定史跡に指定されたが、根拠があるわけではなく同36年に解除され旧跡に変更されている。
(2022年02月11日訪問)