金鑽神社に参詣したあと近くで昼飯でも食べようと適当に探したのだが中々お店が見つからず、県境を越えて群馬県でトンカツ屋に入った。
その後、浄法寺に参詣したが群馬県の内容になるので、それは別の機会に書くつもりだ。児玉町に戻り、競進社模範蚕室の内部を見学。
そうしているうちに時刻は15時になっていたが、ひさしぶりに児玉町のお寺、成身院へ来てみた。

成身院は現在は無住のさびしい寺だが、裏山には奈良時代の寺院の三重塔の礎石があることから、かつては地域の中核的な寺院が存在していたようだ。
現在の寺院が成立したのは室町時代だという。

この寺の見ものは、なんといってもさざえ堂である。
でも、この寺のさざえ堂は複雑なものなので書くとかなり長くなる。そこで、まず成身院というお寺の全体について紹介し、次の記事でさざえ堂の内部についてを余すところなく解説するつもりだ。

寺の山門は八脚門の仁王門で、寺の本坊から100mほど離れている。

仁王は、金網が邪魔でカメラのピントがちゃんと合わなかった。

仁王門の遠景。

門を潜り少し進むと、右側にコミュニティセンターがある。
成身院自体は
以前は門前のお店に言うと、村の係の人に電話して呼び寄せてもらうというシステムだった。担当者はわざわざ車で来てくれるのが申し訳ない感じだったから近くに案内人が常駐するようになったのは助かる。

参道を100mほど進むと成身院の本坊がある。
山門は三間一戸薬医門。

建物は本堂、兼、庫裏と東司のみ。
無住で檀家もいない寺だが、村の人たちが除草や掃除などをしているのだろう。

本堂の向かいの斜面に石段があり、お堂が見える。

登ってみよう。

少し荒れたお堂があった。
三仏堂で、阿弥陀三尊仏が祀られていたが、管理ができないので現在はさざえ堂の内部に移されている。

お堂の中は悪い感じ。
天井は格天井で天井絵もあるが、それも消えかけている。

肝心のさざえ堂は、ここから丘陵を登ったところにある。

途中には用途不明な建物。
地域の公民館にしては階段の途中という行きにくい場所にある。さざえ堂付属の信徒休憩所みたいな建物だろうか。

石段の終わりにさざえ堂が見えてくる。
花頭窓を4つもちりばめ、二重屋根のむちゃくちゃけれん味あふれる建物だ。

このさざえ堂は天明の浅間山噴火(1783)の死者を供養するために建てられた。浅間山北面に大きな火砕流が発生して吾妻川がせき止められ、それが決壊したときに下流に大きな洪水被害が出た。
吾妻川で洪水に巻き込まれた人の死体は、下流の利根川の伊勢崎付近にたくさん流れ着いた。700名もの死体を埋葬したという。

時の住職は噴火の死者の供養をするとともに、人々から寄進を募り大日如来像を造立した。

そのときに造られた大日如来像が、さざえ堂の前に露天で置かれている。

その後、百観音堂を建てようと寄進を始め、寛政4年(1792)に竣工する。
だが、そのときの建物は明治21年に焼失してしまう。現在のさざえ堂は明治43年に再建した2代目だ。
消失したさざえ堂の構造が現在と同だったのかについては不明。

向拝には巨大な鰐口が下がっている。
もともと焼失したさざえ堂についていたもので、裏面には火事の跡が残っているそうだ。

向拝の天井画。
この絵は今井

向拝の下には足跡のついた石版が置かれている。
「お砂踏み」といい、各霊場から集めた砂が埋められていて、これを踏むと巡礼をしたのと同じ御利益が得られる。
通常、百観音巡りとか四国八十八ヶ所の砂を埋めるのだが、ここは西国三十三、坂東三十三、秩父三十四、四国八十八、最上三十三の221霊場の砂が埋められている。すごいな。

建物は普段はカギがかかっているので、コミュニティセンターにいるガイドさんにカギを開けてもらう。
内部はすべて土足で参詣できる。

さざえ堂の外観を見てみよう。
2重3階の構造。
最初の屋根までが内部2階になっている。

3階には外部に欄干がある。
こうした重層堂の欄干はほとんどが飾りでダミーなのだが、この堂では実際に3階から外にでれば欄干を歩ける。
もっとも手すりが低くて危ないから、外には出られないようになっているが。

軒下に高窓があり中の仏像がちらりと見える。
この窓は明かり取りで、ここから見えるのは2階だ。
こういうチラ見せ、たまらない。

さざえ堂の裏山に続く道があるので登ってみる。

弘法大師の板碑が建っていた。

境内にはほかに展望所の四阿がある。
(2014年05月25日訪問)