野村町にあるシルク博物館へ行ってみた。
かつて野村町には愛媛蚕糸という製糸工場があり、地域にもたくさんの養蚕農家があるシルクの町だった。その町が作った博物館だ。現在、この博物館がリーダーとなって地域の養蚕農家を支えている。
蚕糸に関する博物館は日本各地にあって、民具を展示したりワークショップを開催したりしているが、野村町のシルク博物館は他の博物館施設とは一線を画している。
館内の一部に生糸の製造から機織りまでの設備を持ち、織り姫制度ともいわれる1~2年かかる染織講座を開催している。この講座のカリキュラムは染織作家の志村明氏が10年かけて構築したもので、生糸から織りまでの実践的な染織技術を一貫して学べる日本で唯一の学校と言ってもいい場所なのだ。
糸作りには機械繰糸機も使っており、小さな製糸工場ともいえる。よくメディアでは日本に製糸工場は4ヶ所しかないと書かれるけれど、実際にはもう少しあってここは4ヶ所以外で最も生糸の生産量が多い施設と思われる。
本当はその辺の設備を見学したかったのだけど、通常の見学コースには含まれていなかった。そのかわり、館長の亀崎壽治さんが直接会って話してくださった。
亀崎さんは官公庁からの天下りではなく、製糸工場出身で糸のことがわかる方で、ご両親も養蚕農家だから取り組み方がきわめて真剣だった。話してくださった内容はあまりにも生々しいのでここでは詳細には書かない。ただよくある地域おこしの「シルクもブランド化したり差別化したりすれば利益が出るようになって有望な地域産業になる」といった上滑りした発想ではなく、しぶといサバイバルを考えておられた。今後農水省や大日本蚕糸会等の補助金の縮小で養蚕農家が減り、製糸技術も失われるだろう中で、「生き残るのならウチが生き残るんだ」とおっしゃっていたのがとても印象的だった。
この人が館長でいる限り、たぶん愛媛県の養蚕と製糸の技術は残るだろうと思う。
ここからは通常の常設展示のうち、珍しそうなものだけをかいつまんで紹介しようと思う。
天蚕糸の展示があった。興味深いのは右に置いてある看板。平成2年度(1990)に補助事業で城川町に天蚕センターという箱モノが作られたということがわかる。
繭を入れてある小さな桶は、古い製糸工場で使われていた配繭桶だ。
蚕種製造にかかわる展示品。
現代の蚕種製造ではなく、古いタイプの設備だ。
右上の「繭切り小刀」が珍しいかな。
宇和町で「丸盆」と言っていた、円形の蚕箔。
ここでは「あじろ」と書かれている。網代は底の部分の竹の編み方の名称だが、それが転じてこの蚕箔をあじろと呼ぶようになったのだろうか。
一般的な蚕箔は竹製で長方形だが、丸い蚕箔は東北でも見たことがある。丸盆は美しく籠としては正しい姿だが、餌が棒状の条桑育には向かないし、蚕座紙や除沙網も丸く作らなければならず、稚蚕だけを飼うにしても面倒そうに思えてしまう。
さまざまな
右下の黒ずんだ蜂の巣みたいな蔟は実物を初めて見た。
左下の木製の蔟や蜂の巣蔟は、普及することなく消えたあだ花的な道具だけれど、現代的な素材で製造したら、上蔟プロセス(組み立て→振り込み→営繭→解体→繭かき→掃除)の省力化のヒントになるのではないか。昭和に生産され、現在農家で使われているボール蔟は和紙製で、今後はきちんとしたものが作れなくなるだろうから。
改良藁蔟編み機。
鉄製のものは初めて見た。
繭粒数計。
繭の品質を検査するときに間違わずに繭を数えるための道具。
野村町で作られた生糸。チョップにある「カメリア」は愛媛蚕糸という製糸工場のブランドで、起源は大正時代にあった東宇和蚕糸までさかのぼる。
全盛期は終戦後で、エリザベス女王の戴冠式の衣装の糸をイギリスから注文されたことがあるという。
諏訪式の繰糸機。
製糸工場というよりは家内制手工業のために使われた道具。長野県の諏訪地方で発明され、全国に広まった。
揚げ返し機。
小型で家内制手工業用の機材だ。足踏み式になっているようだ。手回し式が一般的で足踏みのものは珍しいと思う。
(2011年10月09日訪問)