檜皮葺きに民芸チックな腰板・・・
「あーハイハイ、補助金で作られた観光水車でございますネ!」
って、口から出そうになってしまうのだが、それほど単純な物件ではない。
もともとこの場所には地域の水車小屋があり、やがて使われなくなって壊れかけていたのを補助金で修復したものなのだ。
改修前は波トタンなどで作られた見栄えもよくない小屋だったのを、市の町おこし事業の補助を受けて改修したのだそうだ。水車小屋の場所は変わっていないし、中の臼などはそのままだ。
修復されたのはいまから十数年くらい前(1990年代前半?)、竹下内閣が地方創成に1億円をばらまいた少し後の、小池市政の時代だったという。
改修には市からの補助金が1事業あたり50~100万円ほど出たが、工事の人工や材料の拠出は地域の若者たちのボランティアだったという。このとき町内の若者宿(?)的なたまり場「炭太郎」も作られた。
この水車の権利は9戸が持っていて、割り当ては9日間で順番が回ってくる。10日目は予備日だった。自分の家の日に用事があって踏めなかった(精米できなかった)場合は10日目に使用できた。基本的に10日分ほどの米を一度に搗く。それはすべて女性の仕事で、男性はかかわらなかった。
川の水の量によって多少時間は変わったが、朝7時に玄米を入れておけば、夕方に仕事が終るころには終わっていたそうだ。
水車小屋には錠がかかっているので、権利を持つ家に伺ってカギを借りて中を見せてもらった。
現在は電動精米機があるので水車小屋を使うことはなく、たまに地域外の人が使いたいと言ってくるので貸してあげる程度だそうだ。
左手前にある樋のようなものは、水輪に水を掛けるためのもの。
導水路から水輪は50cmくらい離れていて、木の樋を設置しないと水がかからない構造になっている。
杵の先端は石のキャップが付いている。これを「
臼は2器あり、それぞれ1斗1升と1斗3升の大きさ。一家が10日間食べる米は十分に精米できた。
女性たちは朝一輪車に玄米を載せて水車小屋まで運び、夕方家に持ち帰ってから糠と精米をふるい分けた。
この地区では精米時に「磨き粉」を加えることで早く精米できるようにしていた。
電動の精米機が普及してからは水車小屋に行くのは面倒なのでもう20年くらい水車で精米はしていないが、昔使っていたという磨き粉を見せてくれた。重炭酸ナトリウム、つまり重曹だ。使用する分量は1升につき1合ほどだったそうだ。
この、水車精米で磨き粉を入れるという話は、八多以外では聞いたことがない。
宝丈の水車の前には唐臼も設置されているが、これは、水車小屋を修復したときに誰かが自分の家にあったものを寄付したとのこと。
戦中、終戦直後は白米などあまり食べられなかったので、水車小屋を使用したのは戦後、お米が潤沢に食べられるようになってから電動精米機が普及するまでの間だった。水車を使う以前は各家の唐臼を使っていたそうだ。話をきいたおばあちゃんの年齢から、戦前やそれ以上昔がどうだったかは正確にはわからない。
取水場所を見てみよう。
水車小屋から30mほど上流に堰があり、そこから用水路へ取水している。
八多川では堰の数だけ水車小屋があったという。
用水路は水車専用ではなく、基本的に田畑へ水を送るためのもので、その途中の水門で水車小屋へと分水している。
その先でも水車にかかる水を微調整するための排水口があり、水量は細かく制御できる。増水時などで用水路側に過剰な水が流れ込んできたときは水車を保護するために水を川に戻すのだろう。
ふと見たら、川の対岸のイラクサ(?)の茂みにカワセミが止まっていた。(写真左端)
(2006年12月16日訪問)