高麗神社の西にあるお寺、
高麗神社を訪れる観光客はだいたいこちらも訪れるんじゃないだろうか。距離は400mくらいしか離れていないから、どちらかに駐車して歩いてもいいくらいだ。
私は高麗家住宅に駐車したのでさすがに車で移動。聖天院にも100台以上は置けそうな専用駐車場がある。
あれ?
様子が前に来たときと違う・・・こんな寺だったっけ?
確か、楼門、本堂、庫裏、方丈池くらいの規模のお寺だったと記憶しているんだけど・・・すごいことになってる!
国土地理院のサイトで昭和時代の様子を見てみる。
点線の部分が当時の寺域。
私が知っていた聖天院はこれ。
こちらが現在の聖天院。
なんとお寺の境内が2倍くらいになっている!
むかし本堂があった場所は庭園になっていて、本堂は山の上に移転しているのだ。
何だか初めて来たお寺みたいな感じだ。
参道には将軍標が立てられている。
高麗神社の将軍標に比べると少しだけマイルド。
奈良朝廷は、関東一円に分散して住んでいた高句麗からの亡命者をこの地方に集めて高麗郡を定めた。郡司として高麗若光を任命し、土地の開墾に当たらせた。高麗若光が亡くなるなったのち、天平勝宝3年(751)に若光を弔うためにこの寺が創立されたという。
当所は法相宗で歓喜天を祀っていたが、天正8年(1580)に真言宗に改宗し、本尊を不動明王としたため、聖天は名前に残るだけだ。
伽藍配置図。
山門の前の参道は池の中を通っていく。
その池のほとりに高麗若光の廟がある。
廟の入口には羊の狛犬。
廟の中には石造五重塔が納められていた。
風化が進んでいる。
山門は三間一戸で屋根に唐破風をつけた江戸趣味の楼門。
中には風神雷神が祀られている。
山門を入ると右側に信徒休憩所。
楼門の先にさらに中門の四脚門がある。
拝観料は300円でシーズンオフだからか中門の料金箱にセルフで入れるシステムだった。
中門を潜ると広い庭園がある。
ここは以前に本堂が建っていた場所。
庭園の右側に大玄関。
庫裏にも別に玄関がある。
境内の西には阿弥陀堂。これは唯一昔からあったお堂だ。
向拝には摩尼車。
阿弥陀堂の内部の様子。
阿弥陀堂の横には土蔵がある。
経蔵かな。
むかし本堂があった場所はいまは美しい池泉庭園になっている。
経蔵の横の石段から本堂へ登る。
途中には仁王像。
衣紋や血管などとても細かく造形されている。
石段を登り切ったところには護符売場があるが、やっていなかった。
石段の先には袴腰鐘楼があるが、まず本堂へお参りしよう。
本堂は巨大な建物で、平成12年(2000)に木造で新築された。京都神護寺のレプリカ的な建築。
いったいいくらかかったんだろう。たぶんこの本堂だけで何億か必要なんじゃないかな。
新しいとはいえ、目を見張る木造建築だ。
柱はものすごい太さ。
こんな材木はもう国内じゃ揃わないんじゃないかな。
本堂前は舞台になっていて展望がある。
本堂の右側には玄関と客殿。そのだらに右側に四阿がある。
鐘楼は袴腰鐘楼として巨大な部類。
竜宮門っぽい作りで中を通り抜けられる。
特筆すべきは2階への階段が2つあり、一方通行で鐘を撞けること。
小さい袴腰鐘楼で参拝者に除夜の鐘を撞かせると階段の昇り降りで詰まって渋滞するのが一般的だ。そこで鐘楼に階段を2つ作り、一方通行にしているお寺をこれまでにも何ヶ寺が見てきた。
そのなかでもこの鐘楼は規模が大きく木造なので特にすばらしいものだ。
階段は鉄砲階段でなく螺旋状にすることで傾斜をゆるくしている。
除夜の鐘では階段も渋滞して人が並ぶので安全面のでもよ設計だと思う。
内部の梵鐘。
こちらは下り階段。
もはや巡礼堂と言ってもいいだろう。
その先には昔の鐘堂が残されていた。
さらにその上の土地も造成していて、多宝塔を建設中。
伽藍の造営意欲がすごい。
もうこれ以上何を望むっていうんだろう。あと足らないのは地下戒壇めぐりくらいか?
その場所から左の谷のほうに、霊園がある。
ここもまだ造られたばかりで、区画はかなり空いている。
この谷には高句麗の偉人たちの石造が並んでいる。
このエリアは戦中、戦後に亡くなった在日韓国人の慰霊の園になっている。
ここにも羊の石像。
慰霊塔を造ったいわれと、それを寄進した人の案内。
八角堂。
ソウルパゴタ公園の八角堂を縮小したものだという。
本格的な韓国風のお堂。
帰ろうとしたら、出口のところでカブを配っていた。
そういえば駐車場でもカブを持って歩いている人を見かけたな。
とても立派なカブだった。
(2022年12月08日訪問)
