伊沢谷を分け入る。
県道3号線は沢に沿って続く、いかにも寒村へ通じるような雰囲気の心細くなるような道だ。
しばらく進んだ「亀底」という集落に来たとき、沢を見上げると橋の上に時計台が見えた。
この橋は旧伊沢北小学校の敷地内にあって、向かって右側が校庭、橋の左側が校舎になっていたようだ。
学校は今は廃校になっていて、校庭は公園として開放されている。
時計台は橋の欄干に取り付けてある。
デザインはいかにもご大典記念物件という風情だが、定礎を見るかぎり関係のない物件のようだ。
銘板には「伊沢北小学校 独立十周年記念 寄贈 松本マサコ」、定礎には「昭和三十二年十二月五日」と書かれている。
ということは、伊沢北小学校は終戦直後の昭和22年に作られたということになる。そのころに伊沢谷は最盛期を迎えたということになる。
想像するに、引揚げ者が山中の開拓集落に入ったり、戦争のために疲弊した山を植林するために、多くの人々が山に生活した時代があったのではなかろうか。
今でも伊沢谷には山の高いところまで人家はあるが、残念ながら小学校がにぎわうほどの子供は住んでいないようだ。
時計を埋め込んであった穴は、コンクリの内側がトタン板で防水されていて、蝶番を取り付けたような跡があった。かつてはガラス板がはまっていたのだろう。
裏側からみるとこんなふうになっている。
ボルトで取り付けられたけっこう際どい構造。
校庭方面から校舎方面をみたところ。
学校側はゲートがあるので、一応立入禁止なのだろうが、校庭側は公園なので立入は自由。
校庭側には水飲み場の跡があった。
校庭側の様子。
ここが公園ではなく校庭の一部だと考える理由は、片隅に二宮金次郎がいるからである。
まったく子どもたちがいなくなってしまった学校で、金次郎だけが毎日学び続けているのは、山里のさびしさをきわだたせる。
たぶん、百年、千年の時間が過ぎても、この校庭に子どもたちの歓声が戻ることはないのだろう。
埴輪のような素朴さあふれる表情。彩色されていたようだ。
今では苔が上半身を覆っている。
遊具を見ていこう。
滑り台は松葉4脚の開放デッキ台。
メーカーは日都産業。
滑り台保存館#142とおおむね同型なのだが、デッキの手すりの束柱の数がこの物件は少ない。どちらかといえば当サイトの殿宮神社の台と近い印象である。
いずれにしてもこのような型の滑り台は日都産業製であるというのはひとつ覚えておきたい。
その特徴とは、
- 松葉型の4脚
- 滑降部と同じ幅の開放デッキ
- タラップや滑降部の末端はデッキの束柱にクランプ留め。
という点である。
極度に背の低い遊動円木があった。
これはもしかしたら遊具狩りの際に、リフォームで小型化されたのかも知れない。
この状態で遊べるとは思えないからだ。
カモメ型リングトンネル。
園内には他に、ブランコ、鉄棒があった。
(2005年03月06日訪問)