竹林寺

蓮池に木造の屋根付き橋がかかる。本堂は国重文。

(広島県東広島市河内町入野)

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竹原からら小一時間、北に走る。国道2号線、新幹線、山陽自動車道を越え、広島空港の北側まで移動する。いよいよ旅のテーマである「屋根付き橋めぐり」に取りかかる。

地図を見ると目的地の竹林寺は山頂に近い場所にあり、かなりの深山幽谷の地ではないかと想像していたのだが、実際は乾いた感じの若い二次林がどこまでも続いているような里山だった。「こんな道の奥に名刹があるんだろうか」と心配になるような風景が続く。

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もちろん日本の山はほぼ人工林か二次林であり、深山幽谷と言うのは杉の人工林を指すわけだが、時を経た人工林はそれなりに風情があるものだ。だが、この写真のような若い森と、寺の風情を結びつける見方が私にはまだよくわかっていない。

山陽地方ではどこまで行っても若い森というような高原が多いので、こういうものなのだと理解すべきなのだろう。

釘貫門から本堂までは1km以上あるので、かつての寺域はおそろしく広いことになる。

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竹林寺は奈良時代の創建という伝説があり、平安前期に再興されたという。奈良時代はどうかわからないが、平安時代にあっただろうという印象だ。その当時、このあたりはどんな森だったのだろうか。

途中に八脚門の仁王門がある。

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仁王はこんな感じ。

写真ではわかりにくいが、この象は木造ではなく、おそらくFRP樹脂と思う。

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手のひらの造形がいまいちではなかろうか。

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境内には大きな池があり、その中央に屋根付き橋がかかっている。

最近は地図サイトで大きな縮尺が選択できるようになったので、右上の地図をクリックしてもらうと伽藍配置が確認できる。

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橋は渡ることができる。

内部から見た風景は、とても見慣れないものだ。これを宗教的にどう読むのか、私にはまだよくわからない。

屋根付き橋に私が最初に抱いたイメージは、寝殿造りの釣殿であり浄土につながるイメージである。確かにこの寺のように池にかかるものは浄土庭園に近いが、これまでに紹介した仏通寺御調八幡宮の物件にはそういう雰囲気はまるでない。しかも宗派的にもマチマチだ。

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池の中には弁天社だろうか。

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伽藍は横に並んでいる。

お寺巡りの教科書にはまったくそんなことは書かれていないのだが、私は、密教系(天台・真言)で堂宇が横に並ぶ寺は古い、と見ている。つまり竹林寺が平安期にはすでにあったろうという印象はそこから来ている。

一番右側にあるのが庫裏。

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庫裏からは渡り廊下で本堂のほうにつながっている。

庫裏の裏側には茶室(左写真の左側に見えている建物)がある。

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渡り廊下の途中には書院のような建物がある。

渡り廊下自体も古そうで、江戸時代くらいまで行きそうな感じ。

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その続きには十王堂。

内部の様子

(狭すぎてパノラマの合成がやや失敗)

司命、司録といった書記官と、本地仏の地蔵尊がいるが、業の秤などの装置類はなかった。

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その続きが本堂になっている。室町後期の建築で国重文。屋根はこけら葺きだが最近大修理が行われたようで「後補の改修は一切認めない」という復元原理主義的な外観のため、他の堂と浮いてしまっている。

文化財の本では、この建物は軒の納め方が特殊のようなことが書いてあったのだが、外側から見た感じ取り立てて特殊な技法は感じられなかった。

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内部は地蔵格子で内陣が区切られた密教風の造り。

一部に天竺様の意匠がみられる。

建物全体の意匠は折衷様である。

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内部の厨子は和様。

これも室町時代のものだという。

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本堂の左側には護摩堂。

奥に小さく見えるのは、鎮守社。

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篁堂(右)。

平安時代の歌人、小野篁の母がこの寺に祈願をして篁を授かったため、篁が嵯峨天皇に上申してこの寺を再興したという伝説がある。

地蔵堂(左)。

境内には他に三十三観音ミニ霊場がある。

(2002年08月28日訪問)

旅の手帖2023年2月号

雑誌 – 2023/1/10
旅の手帖編集部 (編集)
ニッポン文化応援マガジン。旅の楽しさ、日本の美しさを伝える旅行雑誌。

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