東平井を出て、藤岡市南部の庚申山公園の丘陵の周辺の飼育所を探索したがひとつも見つからず、藤岡市の東部方面へ移動した。
藤岡市の東部は、
美九里第1稚蚕共同飼育所は、跡地がわかりやすい形で残っていた。
飼育所がなくなったあと、誰かが土地を買ったらしいが、まだ家などは建っていない。
地下の貯桑室は、まだ面影を留めていた。
近くにいたおばあちゃんに話を聞いたところ、写真中央の茶色の斜面はもと階段で、上がったところは室内だったという。つまり、写真で剥き出しになっている空間には床があったのだ。
地下室から、挫桑室へはリフトで桑を上げたそうだ。
上屋は完全に撤去されていた。
話によれば、リフト上げた桑は動力付きの挫桑機で刻まれて、重さを量ってバケツに入れた。そのバケツは動くようになっていたという。妙義町の古立稚蚕共同飼育所で見た給桑リフトのようなものがあったのだろう。
配蚕については蚕座紙ですまきにして両端を縛ったというので、2齢の終わりでの配蚕だったろう。すまきにするやりかたは、眠に入った蚕を移動するときに向いているからだ。
また、配蚕の日は農家が軽トラで集まるのだが、用事などでその日に受け取れない場合はあらかじめ頼んでおけば、何日か余計に飼育してもらうことができたという。
この話は初めて聞いた。もしかしたら、おばあちゃんの記憶違いで、2齢と3齢の2通りの配蚕方法があった飼育所だったのかもしれない。
飼育所の辻には、庚申塔や馬頭観音があった。
近くで見かけた養蚕農家。
青い屋根の小屋はおそらく蚕室だ。平側にたくさんの開口があり、除沙や蚕座の片づけの際に効率的に使えただろう。仕事がしやすそうだ。
また、その左側に見えるハナレのような建物が気になる。この地域には明治時代に「高山社」という養蚕技術普及組織があった。高山社の本校の建物はもう残っていないのだが、分教場と言われるものがいくつか残存している可能性があり、この建物などはその可能性を疑うべきではないかと思う。
やはり近くで見かけた、りっぱな二つ櫓をのせた農家。
(2008年12月30日訪問)