さて、いよいよきょう最初のお寺、西光寺へ向かう。西光寺は小豆島八十八ヶ所霊場の58番札所で、三重塔があることがわかっている。寺は港町の狭い路地の中にあり、車でどうやって近づくのかわかりにくく、廻りを一周してしまった。
三重塔は寺の裏手にある独立した丘の上に建っているので、町中からその様子がよく見える。
やっぱり塔は遠くから見るのが最高だ。意外に遠くから眺められる塔は少なくて、この西光寺ほど他の建物などに邪魔されずに拝める塔ってあまり思い浮かばない。
それだけではなく、この塔の造形の美しさはどうだ!
1977年(昭和52年)に建てられた比較的新しい塔なのだが、設計は鎌倉時代ふう。各階の逓減や屋根の角度、軒の深さ、九輪の高さなど、全体のバランスがすばらしいく、まったく文句のつけ所がない。
もしかしたら名塔のレプリカなのかもしれない。奈良の霊山寺三重塔あたりがモデルか。
迷路みたいな路地を通って寺の山門の前に出た。山門は三間三戸の二重門の鐘楼門。
この山門にも度肝を抜かれる。ナニこの美しい設計! 1984年(昭和59年)に建てられたというが、いったいこれ設計した人は何者?
そこそも楼門と鐘楼を兼ねる鐘楼門は近代の合理主義、経済的な要請の中で作られるため、俗物的な建築になりがち。そうでなくても、三間二重門は1階の屋根を作るために必要以上に背が高くなりがちなむずかしい建物なのだ。ところがこの門は2階の欄干を床より高いところに設けて全体の高さを押さえ、かつ「2階の階高が少ない三間楼門は美しい」というセオリーに上手に乗っけてきた。
楼門の美しさのすべてが注ぎ込まれたとも思える設計で、三間の重層門という課題に対する答えとしては100点満点、究極の解といえるだろう。
2階の中央1間は欄干が切れていて、梵鐘の音がよく響くようになっている。
この門、モデルは存在しないんじゃないか。
まったく信じられないような素晴らしい仕事だ。これから新たに二重門を建てる場合、まずこの寺の門を参考にすべきだろう。
全体のバランスは鎌倉時代を思わせる。詳細な意匠は純和様。
境内に入ると右側に庫裏。
新しい建物だ。まだ築10年くらい。
山門の左側には大銀杏、水盤舎、、、
東司、
閼伽井屋(?)が続いている。
山門の正面には本堂。
千鳥破風や唐破風が重なった江戸後期のごてごてした本堂建築のデザインで、建てられたのは昭和の後期くらいではないか。
お遍路さんがお参りしていた。
そのお遍路さんが本堂裏山の三重塔のほうへ行くので、釣られて付いていくことにした。
おかげで本堂の写真を撮り忘れた。(写真撮り忘れた部分は動画データから切り出したので、ちょっと解像度不足。)
石段の途中にはラントウ群がある。
石祠型のお墓で、一般的には祠内仏などと呼ぶべきものかと思うが、小豆島ではこれを「ラントウ」という。漢字は「蘭塔」、「卵塔」などの字を当てるという。
「卵塔」は無縫塔の意味もあるので、誤解を生じないよう「蘭塔」を当てるのがいいだろう。
石段は小さな裏山を巻きながら頂上へと続いている。
石段を登り切ったところには、鐘堂、、、
弘法大師像がある。
メインとなるのはもちろん三重塔。こちらも意匠は純和様。
楼門と同じ設計者なんだろうな。
裏山から下りて本堂のほうへお参りすると、
あれ? 戒壇巡りあるじゃん!
戒壇巡りとは本堂の地下の真っ暗な通路を歩いて、煩悩を淨化するという信仰装置。
拝観料100円を払ってさっそく入らせてもらう。
本堂の内陣の下が広い地下室になっていて、弘法大師が祀られていた。
戒壇巡りの終わりあたりで地下道が分岐し、上り階段になっていく。
そこまでの建物の床下的な室内空間と違って、洞窟のような雰囲気に変わる。しかもけっこう段数がある。
洞窟を上り詰めると、日光が差し込む出口へ。
そこはなんと、三重塔の基壇だったのだ!
え~~~、さっき三重塔にお参りしたときにはお遍路さんも居たので、こんなところに出口があったなんてまったく気付かなかった。
すごい、すごすぎる!
本堂の中から床下に降りたはずなのに、いつのまにか本堂の屋根より高い場所に出ていたのだ。
一見地味な、というか固そうなお寺なのに、すごいギミックが最後の最後にあった。
これまで戒壇巡りや地下霊場をいくつも見てきたが、ここは私が見た中ではベスト5に入るすばらしい物件だった。
小山の上から神社が見える。
このあと迷路みたいな路地をブラブラしながら、この神社へも行ってみよう。
(2006年10月08日訪問)