とりあえず徳島に来たら一度は行っておきたい観光地、鳴門のうず潮。
潮の干満に関係する現象なので、見られる時間は毎日変化する。徳島新聞にはその日のうず潮の見どころの時間帯が掲載されている。
この日はちょうどよい時間だったので、友人とうず潮と鳴門大橋の観光。ただやっぱりこの日もレジャー中心だったので写真はほとんど撮らず。
その後、帰りの飛行機まで少し余裕があったので、JR高徳線の池谷駅を見に行くことにした。そう、友人は鉄っちゃんなのである。池谷駅は高徳線と鳴門線の接続駅なのだが、2つの路線がハの字型に合流していて、ホームもハの字になっているという変わった駅。
それでもまだ少し時間があったので、さらに隣りの坂東駅へと来てみた。
ファサードはアールデコ調の看板建築。当時は相当オシャレな建物だったろう。内部は、舞台はあまり広くないものの簡易な花道もある芝居小屋形式だったという。
2階部分の左右の窓には拡声器があって、夕方の上映が始まる前には大音量で音楽を流した。曲は戦前、戦中は軍艦マーチ、戦後は菅原都々子の「月がとっても青いから」など。その当時は自動車が少なかったから、大麻比古神社のほうまでその音楽が聞こえたそうだ。
坂東は四国八十八ヶ所の第1番霊山寺の下車駅で、かつては駅前通りには商店が続いていた。賑やかな商店街で正月三が日などはお寺へ向かう人で前に進めないほど混雑した。
撫養街道がバイパスに付け替えられると、坂東駅前の人通りは少なくなり、いまはもう面影を探すのもむずかしい。
映画館を閉めた時期ははっきり確認できなかった。昭和30年ごろには閉館していたという話も聞いたが、実際は昭和45~50年ごろではないか。というのも、旅芝居や歌謡ショーで瀬川瑛子も来たことがあるという。瀬川のデビューが昭和42年なので、少なくとも昭和30年代に閉館していたということはない。
宮本さんという家がこの映画館を経営していて、映画館を閉めたあとも、取り壊さずに置いている。
正面のドアのわずかな隙間から中を写してみた。
ガラスがひどく汚れているのと、カーテンがあるため、客席の様子はよくわからなかった。
建物の後方。
高い大棟がある部分が劇場。その後ろの緑色のテントの付いた建物はもと楽屋。旅役者の一座などは劇場の楽屋に宿泊したと思う。
劇場の屋根はトタン波板で葺かれているが、創建当初は人手で圧延した鋼板が使われていて、当時は珍しかったそうだ。現在、小壁に貼り付けてある黒い鉄板がそれではないかと思われる。
初期のトタン屋根の遺構としても貴重なのではないか。
建物から飛び出たように下屋がある。
窓がないので倉庫だったのではないか。
建物の後方の楽屋部分。
楽屋の2階の窓から役者さんが顔を出すこともあったという。
反対側から背面を見たところ。
このトイレが劇場のトイレだったのか。
坂東音頭なるものと、猿の塚を説明した看板があった。
喜楽座は、確認できる県内最古の芝居小屋として貴重な建物だ。市指定有形文化財にしてもいいのではと思うが、いまの自治体にはもう大型の建築物を文化財指定する財政的な余力がないのかもしれない。
こうした消え行く建物は、未来へ残してゆけない風景として、文化財よりも貴重と言えるのではないだろうか。いまのうちにしっかりと目に焼き付けておきたい。
その後、2010年ごろには劇場の建物は取り壊され、更地になってしまった。
(2005年07月23日訪問)