北関東で天台宗の古刹というと、群馬県の浄法寺、栃木県の大慈寺、そしてここ埼玉県の慈光寺が思い浮かぶ。どこも現存する建物が古いとういことはなく、お寺を見慣れていないとそこらのお寺と同じに見えてしまうという共通点がある。
でもお寺を見慣れていくとこの3ヶ寺の伽藍配置からものすごく天台臭というか、密教っぽさを感じるのだ。その中でもここ慈光寺は山の尾根付近を占める一山寺院の雰囲気が色濃く、他の寺々とは一線を画している。大げさに言えば比叡山とか書写山みたいな寺ということだ。
最盛期は頼朝の庇護が厚かった鎌倉時代と思うが、境内の雰囲気は平安時代っぽさすら感じさせるのだよね。
伽藍配置図がなく、全容がよくわからない寺でもあるのだが、境内のポスターである程度はイメージできる。(黒字と矢印は書き足した。)
最盛期に75坊の塔頭があったというが、実際にそれらがどこにあったのかなどは判然としない。イラストでは行き止まりに見える中央の黒々した谷や、本坊の南斜面などに点在する人家がかつての坊の跡なのかもしれない。
女人堂から広い方の道を進む。
このルートは現在は車で走りやすい道として整備されているが、徒歩の旧参道を縫うようなルートになっていて、途中で山門跡に出る。
古図によると、ここに八脚門の仁王門、釘貫門、念仏堂、愛宕社、山王社、弁天社などがあったようだ。こうした建物ひとつひとつが75坊の1カウントなのかもしれない。
説明によると釘貫門から内側は女人禁制だったが、「女人道」というバイパスルートがあり、伽藍の最深部、現在の観音堂まで参拝できたようだ。
私は車で登っているのだが、徒歩や自転車で登っている人々がそれなりにいる。
この山門跡の見どころは巨大な板碑。
関東山地の北部にはこうした変成岩を使った板碑が多く分布するが、その中でも特に立派なものだ。
鎌倉時代末のものだという。
徒歩のルートはまずまず整備されていて、こんな感じ。
そこからさらに山を登ってくと、釈迦堂跡に到着する。
慈光寺の本堂といえるお堂だったのだが、1985年に火災で焼失。
ちなみに私が最後にこの寺を訪れたときには釈迦堂はまだあった。
文化財の案内によれば、建物は元禄8年の再建されたものだった。
現在、跡地はそのまま荒地になって放置されている。
再建するにしても本尊も消失していて、どれほどの意味があるかはわからないが、いま再建しておけばこれから100年、200年と経つうちに、寺の歴史に溶け込むかもしれない。
でも旧態に近い仏殿となると、3億円くらいかかるか?
この場所から南側は少し開けていて景観がある。
ここから見える斜面にもかつて僧房が点々とあったのだろうか。
それらもすべて野に帰ったのだから、釈迦堂跡も荒地のままというのも、それはそれで歴史なのかもしれない。
釈迦堂の右側のこの小さなお堂が火災を免れたのは不幸中の幸いだった。
このお堂は国重文の木造宝塔を収蔵した覆屋。この中に塔が入っているのだ。
塔は室町時代末期の建物だと考えられている。
「宝塔」とは、図のごとく多宝塔の1階部分に裳階がなく円筒形のボディになってる塔のこと。なぜか多宝塔にくらべて数が少なく、あってもミニチュアばかりで、屋外にあるものはさらに限られる。
この慈光寺の宝塔もミニチュアだけど、大きさ的には、あと一歩で建築物として野外に置けそうな感じ。
ここも以前に来たときにはたしか柵がなく、地蔵格子にかぶり付きで観察できたように記憶している。その時ですら「この戸が邪魔だな」と思っていたくらいだが、現在は遠巻きにしか見られないので、何がなんだかさっぱりわからないものになってしまった。
もうこれなら本物はRC造の耐火構造の建物にでも収蔵して、レプリカを野外に建ててほしい。たぶん、全体1億円以内でできるんじゃないかな。
ここから本坊へは歩いて行くことにした。
途中に鐘堂がある。
この梵鐘は鎌倉時代初期のもので、国重文。
現在は撞けないようになっているが、本坊にもうひとつ鐘堂があるのでそちらで撞いてくれとのこと。
参道にはところどころに教典の複製が置かれている。
これは弘法大師が書いた般若心経を写したもの。
拓本用に作ってあるのじゃないかと思う。
いくつもの書体を混在させた破体という手法で書かれているという。
本坊を目指そう。
山門が見えてきた。
本坊のこじんまりとした山門は、四脚門。
山門を入って正面は玄関で、納経所になっている。
玄関右側は現在の本堂だが、建物の種類としては客殿かな。
そもそも本来の本堂ではないから、正面に向拝などもなく、拝むための動線があいまいである。
本堂の内部。
本堂前には第2鐘堂がある。
玄関の右側にある小さな部屋は納経所だと思われる。
ここは坂東三十三観音霊場の第9番札所でもあるのだ。
その左側は方丈だと思う。
さらにその左側には現代風の庫裏。
その先には宝物館。
拝観は大人500円で、仏像のほか国宝の教典などが見られるけれど、小さなものだしガラスとの距離もあるので、細かく観察できるという感じでもない。お寺の拝観料と寄進くらいに思って見るのがよいと思う。
なお写真撮影は禁止。
宝物館の左側には蔵がある。
ここからまた少し横のほうへ歩いてく。
この横長の境内というのが、古刹だなあと感じさせる要因なのだよね。
まずあるのが般若心経堂。
あえていえば写経堂というか写経場というか、信徒のための建物。
内部の様子。
この寺が所蔵する国宝の教典の拡大した図版などが並んでいるので、書が好きなひとは近くでじっくり見られるのでうれしい施設だろう。
般若心経堂の横にある
天明年間の作だという。
比叡山の鎮守社が山王権現なので、それと同じようなものかな。
ユニークな像。
さらに境内を横に移動していく。
現在参詣できる一番奥の伽藍、観音堂。
右側には土産物売り場がある。
参拝客が多かったころがあるのか。
建物は高床で、正面3間、奥行5間、入り母屋妻入りの建物。
観音堂の前にあった水盤舎。
観音堂の横にあった土俵と思われるもの。
見た感じ、江戸末期くらいの建物。
前側の2軒が外陣で吹き抜け、奥3軒が内陣という密教様式。
賽銭箱が床に埋め込み式になっている。
二分岐した善の綱が下がっていた。これを掴めば、本尊と直接結ばれるという綱である。
よく見たら天井に神馬がいた。
賓頭盧さま。
欄間彫刻にはユニークな風神雷神がいる。
山門のあたりで見た看板では女性も観音堂まで参詣できたらしい。そのときの参詣はこちらの石段からだったのだろう。
女人堂から本坊、資料館拝観、観音堂まで、けっこうせかせか見ても1時間くらいはかかる広大なお寺だ。
一山寺院好きには超オススメ。
(2021年11月03日訪問)