屋那瀬の五味橋。鮎喰川の流れ橋のなかでも特に景観のよい場所にあり、以前にも紹介している。
この橋の上には実は索道が通っている。
これがそう。
川の北側にある相原家の索道だ。
2008年の8月、この相原家を訪ねて索道の話を聞いた。
相原家は南側の小野地区に農地を持っていて、ウメを生産している。
最初の索道は昭和30年ごろに造ったが、10年ほどまえに大改修して現在の形にした。100kg以上の貨物を運べるそうだ。兼業農家でご主人は建築業をしていたので索道の機械室の上屋は自分で建てた。このときの修繕だけで40万円かかったという。このクラスの索道をイチから設置すると100万円以上はかかるのではないかとのこと。
相原家が最初に索道を造ったときは動力のないトバシという索道だったそうだ。厳密に言えばトバシとは傾斜のある索道で積み荷の重さで滑り降りるものをいうと思うので、話を聞く限りでは相原家が使っていたのは曳索の付いた索道だと思われる。神山にはそうした単純な構造のトバシ索道がたくさんあったという。剣山地の山村ではモノラックという小型のモノレールがよく見られるが、神山にはトバシが多かったためモノラックが少ないのだという。
相原家では主索に滑車を付けて荷物を吊り下げた。荷物にはロープの曳索を付けて手で引き寄せていた。その頃の主索は現在よりも太く150kgくらいの荷物を積めた。耕うん機を対岸に移動するのにも使った。
主索は傾斜が少ないように張られているが荷物の重さで垂れ下がるから最後のほうは引き上げるのがとても大変だった。おかげで足腰が強くなったという。そのころの作目は桑で養蚕をしていた。
機械室。
巨大なハンドルはたぶんブレーキ、赤いつまみのあるハンドルがクラッチだろうと思う。
この日、話を聞いたときに私は「トバシ」のことがよくわかっていなかったのだけれど、いまこの機械室の写真をみると奥にトバシで使われた小型の滑車が残っているのが写っている。
いまだったらもっと詳しく話を聞けるのにな。
機械室側からみた索道の様子。主索は2本、曳索はエンドレスラインの交走式の索道だ。
索道の下には五味橋があるが増水すると橋桁が流されるし、橋脚が木造だったころは橋が損壊して復旧まで時間が掛かることもあったので、そういう時は搬器に乗って川を渡ったこともあるという。それは動力が付いてからなのかその前なのか訊きそこなった。
動力付きの索道では誰かがウインチを操作しなければならないから、たとえば夫婦2人で作業をするにも1人が家側に残らなければならない。もしかしたら機械化される前の話だったかもしれない。だとすればこれは鮎喰川を渡る野猿だったという言い方もできる。
ご主人が若いころ(昭和27年ごろ)の話を聞いた。むかしは鮎喰川の様子は現在とは違っていたという。
川には生きものが多くモクズガニなどは1籠に100杯以上入ることもあったし、1時間で70尾以上のアユを捕ったこともあるという。ニギリと言って石の下にいる魚を手づかみすることもあった。季節感も変わり、昔はモクズガニが捕れるのは10月10日ごろと言われていたが、最近は8月15日くらいから捕れるようになっている。
以前はもっと水量が多く、川底には砂が少なかったそうだ。流されたら戻ってこれないほどだったそうだ。
現在、私の住んでいる名東のあたりでは鮎喰川はほぼ水なし川だが昔は通年で水があり、春先に多くの天然アユが遡上したそうだ。
対岸の設備も見せてもらった。
対岸には動力設備はなく曳索がループしているだけだ。
枕木の上に載っているのが主索、滑車に掛かっているのが曳索だ。
対岸にはいま自家用の水田と芋畑がある。芋はイノシシの害ですべて食べられてしまった。
今年、山でイノシシを捕まえて飼っているというので見せてもらった。
まだ小さい。数ヶ月くらいか。
よく懐いていてかわいかった。
(2008年09月27日訪問)