明秋神社から高水敷を荒川上流方向へ行ってみる。
あたりは運動公園になっていて何もない。
スポーツに関連する建物ひとつないのは、ここが非常時に荒川の氾濫水を受け入れる遊水地であって、建物を建てることが許可されない地域だからだ。
糠田橋ができる以前にはこのあたりに糠田河岸という河岸場があり渡し舟もあったが、河川整備工事でもう面影もなくなっている。
その何もない土地にぽつんと石塔が残っていた。
これはかつて河岸場の水害を防ぐために建てられた九頭龍権現碑だ。
碑文は「九頭龍大神」となっている。
その近くにかつての明秋村の共同墓地があった。
墓地の入口には石地蔵や観音菩薩。
中央の四角柱の基壇がある地蔵は私は高地蔵と呼んでいる。地表から蓮台まで1m以上あるので水害時にも水に浸からない地蔵だ。
墓地の来歴が書かれた碑があった。
それによれば、江戸時代にこの場所に「須戸野谷新田」という集落があった。集落は荒川左岸の台地上にある鴻巣宿に所属していたが、この場所は度重なる氾濫に見舞われる場所だったため、台地エリアの行政下にあったのでは不都合が多かった。
明治時代になり、足立郡から横見郡へ変更になったときに、県に申し立てを行ない25戸が明秋村として独立することができた。
明治、大正時代を通じて洪水が絶えることはなかったが、そのおかげで土地が肥え「極楽新田」と呼ばれるほど平和で住みやすい村となった。
昭和になり荒川の洪水調整対策として横堤が建設された。横堤は荒川の流れを弱めて水を滞留させることで下流の東京都の堤防を守るというものだった。村は遊水地のような場所に変わってしまった。昭和13年の大洪水を契機に、横堤に腹付けする居住の許可が出て、昭和16~17年にかけて村は北吉見横堤へ移転した。
墓地については先祖の眠る場所に埋葬を続けたいということで堤外地に残った。その後昭和58年に現在のようなコンクリートで補強する工事を実施して現在に至っている。
この碑によって北吉見横堤の集落が昭和17年ごろにできたということが判明した。
このあたりのGoogleMapsの航空写真に明治時代の主要道路と、糠田河岸周辺の住居の状況を描き加えてみた。まだ横堤や糠田橋はなく、荒川はひょうたん池の場所を流れていた。
河川整備で当時の村に関係するものは撤去され平坦化したが、神仏だけは高水敷に残ることが許さた。白文字の稲荷社、共同墓地、九頭龍権現、明秋神社は現在も残り、ここに村があったことを伝えている。
(2022年11月22日訪問)
