明秋の陸閘から北側を見る草地の中に鎮守の森がある。
かつてこの場所にあった明秋村の鎮守だ。
明治初期の地図を見ると「神明社」となっているが、現在は扁額に「明秋神社」とある。
鳥居をくぐった崎には水盤と何らかの礎石がある。
おそらく水盤舎の礎石ではないか。
境内に、水屋と幟棹置場を奉納したという石碑が残っている。この場所は荒川の増水時には水に浸かるから壊れてしまったのかもしれない。
なお河川敷に建物を建てたり改築したりするには国の許可が必要。
神社は周囲が樹に囲まれていて、社殿は拝殿と本殿のみ。
神社の境内は周囲の田んぼよりはわずかに高くなっているが、荒川の増水時に水を防げる高さとも思えない。周囲の樹木で重量のある流木などが激突するのを回避できるだけだろう。
拝殿の内部。扁額には神明神社、稲荷神社の2柱の神名が併記されている。
奥に本殿が見えているがおそらく流造り。
本殿の右側には石塔が並べてある。
右から見ていくと、一番右にあるのは水盤舎と棹納め所の奉納碑。
二番目の文字碑は、慰霊碑。明治はじめにこの地から出征した永浪八という陸軍伍長が、西南戦争に従軍し木留の戦いで銃弾に倒れて戦死したというようなことが書かれている。
その左側には小さな水神宮。
その左の文字碑はこの神社の由来。
この須戸野新田では土地や田畑の境界について度々係争が起きていた。明治の世になって入間県などの役所や村長が話し合い、新しい制度によって争いが解決された。それまで神社の参拝に不便だったため、この場所に明治7年に新たに神社を勧請したというようなことが書かれている。
その右側は庚申供養講の文字碑。正徳元年(江戸初期)の銘がある。
道しるべかな?
大正4年に群馬県の板倉から勧進した雷電大神。
素朴な水神碑。
本殿の背後はジャノヒゲが茂っている。
社殿の背後は草地。運動公園の一部で、花火大会などのための用地。
かつては村があり田んぼもあった場所だが、いまは遊水地になっている。
(2022年11月22日訪問)
