渕名小の時計台

公道に面して建つ廃校の時計台。

(徳島県美馬市穴吹町口山渕名)

脇町から吉野川を渡り、穴吹町へ。そこから急傾斜集落の渕名(ふちみょう)を目指す。

渕名へ上がるには、穴吹中学校の裏手から山の斜面を巻きながら登って行くルートと、宿泊施設のブルーヴィラ穴吹のちょい手前から谷川に沿って登って行くルートがある。

オススメは前者で、距離は長くなるが「ソラ」と呼ばれる高地集落の様子を堪能しながらゆるゆると行くのがいい。後者の道は穴吹温泉経由で渕名へ入る距離的には近いルートだが、谷底なので見晴らしはいまひとつだ。

だがきょうは後者のルートを通っている。なぜかというと渕名集落へ行くのが目的ではなく、途中にある渕名小学校が目的地だからだ。

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渕名というか、この地方の民家はほぼこんな感じ。

茅葺きの寄棟屋根に瓦のヒサシを巡らせた四方蓋(しほうぶた)造りといわれる民家。それは吉野川氾濫原の藍農家の主屋などにも見られる形態なのだが、渕名の民家の特徴はとにかく軒が低いこと。

掃き出し窓の鴨居よりも軒が低い家がけっこうある。

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それともう一つの特徴は、主屋の横に、主屋と棟が90度ちがう付属屋があること。

これが氾濫原の藍農家であれば、農作業小屋か藍の寝床だったりするのだが、こうしてみると何だか付属屋にも人が住めそう。私は隠居部屋なんじゃないかと勝手に妄想している。

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さて、渕名小学校に来た目的がこれ。

学校の校庭にある時計台である。

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一応、一般人が立ち入れない学校の中の物件は紹介しない仁義があるが、ここはずいぶん前に廃校になっているし、そもそも道に面しているので問題にはならない。

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コンクリ洗い出し仕上げ、意匠的にはポストモダンっぽい前衛的な時計台だ。

時計は残っているが機能していなかった。

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時計部分がけっこう複雑な形をしている。

学校の校章とも違うし何をモチーフにしたものなのだろうか?

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定礎。

寄贈者の住所が町の外の人なのは、村を出て他所で成功した人たちが寄贈したのだろう。

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時計の配電盤。

ボリュームみたいなスイッチは何なのだろう。もしかして電灯でもあったのか。

学校は廃校になっているが、中に思い出の写真が飾られていた。

誰かが検索するかもしれないので、文章を書き写しておく。

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ありし日の渕名

大正14年、口山村小学校連合チームが美馬郡運動会に於て優勝して記念写真です。現在宮内校区内の白人神社と花輪を背景に撮る。なお優勝旗は各小学校を2月ごとぐらいに順次持ちまわったとのことです。

昭和14年、渕名青年団が団費稼ぎと皇紀2600年記念事業として渕名地区の佐條林道の敷設工事を請け負う。団長さんは大館貞太郎氏で右から2番目のタオルで鉢巻きをしている方です。

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昭和26年頃、渕名小学校並びに口山中学校渕名分校の旧校舎とその周辺。左側の校舎を2階建てにして2教室を増設する。

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昭和48年、第22階全国へき地教育研究大会の第11分科会々場と渕名小学校がなりました。この写真は当日の昼休みに合奏発表をしました。

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昭和48年、第22回全国へき地教育研究大会での授業風景です。この研究会を通して作文力のすぐれた児童がその後沢山でました。昭和46年から指導をうけていたので、大学2年より中学1年生までの8年間の児童が該当者でした。主題は国語の作文指導と算数の文章題指導でした。(昭和54年度現在)

ここまで。

昭和40年~50年頃が渕名に子どもが多く、いちばん活気があったときなのかもしれない。へき地といわれながら、作文コンクールなどで入賞する生徒がいたりして、小学校が最も誇らしく輝いていた記憶として残っているのだ。

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昔の渕名の暮しを描いた油絵もあった。

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学校の校庭にある村内の案内図。

昔の村の案内図って、各家の名前が書かれていて今じゃ考えられないことだけれど、でも実際便利だったろうな。

十三仏霊場や寺社などが細かく載っているので高解像度で掲載しておく。

山の名前も細かく載っているが、上のほうに「ねこ森」という山があるのが気になる!

(2006年12月17日訪問)

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