三尾寺

文化財的改修がされていない本堂が見もの。

(岡山県新見市豊永赤馬)

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日咩坂鍾乳穴神社の別当寺、三尾寺(みおじ)へ向かう。

途中、道切りがあった。

何らかの植物の葉を編み込んだ注連縄に、絵馬状のものが下がっていて「三尾寺」と書かれている。

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参道は杉並木。

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本坊の前に駐車場がある。

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本坊の山門は薬医門で、唐破風付きの平唐門。

一般的に、唐門といわれるものは多くが四脚門であり、薬医門で唐破風付きの唐門というのはめずらしい。

背が低く、意匠も古い。年代はけっこう行っていそう。少なくとも江戸初期か、ともすれば安土桃山くらいまで行きそうな感じだ。

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山門を入った正面は大きな唐破風のついた玄関。

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玄関の右側には庫裏と蔵。

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玄関の左側には方丈がある。

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方丈のさらに左には中門の薬医門。

中門とは境内の中を仕切る門で、一般的には身分の高い人の墓所や霊廟を囲む塀や、方丈の前庭を囲む塀に付属することが多い。このように裏庭の方向をふさぐように中門がある場合は霊廟がある場合が多いが、この寺には霊廟などもなさそう。裏庭に立ち入らないようにするための塀か。

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さらに左側にはまた薬医門がある。屋根瓦など現代の修復がされているが、門柱自体は風化していて年代が古そう。江戸初期くらい行くかもしれない。

門扉の付き方からすれば、本坊側が門の裏になる。

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この薬医門の先には大師堂(右)と本堂(左)がある。

こうして見ると、庫裏、玄関、方丈、大師堂、本堂と横に並んでいることになる。天台宗の古刹によくあるパターンの伽藍配置だ。

だがこの寺の宗派は、高野山真言宗。

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大師堂。

内部を見たところ、実質的には護摩堂といっていいと思う。内部には仁王様がいた。かつて二王門でもあったのだろうか。

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大師堂の年代は江戸末期かそれ以後だろう。

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護摩堂と本堂の間によくわからない建物がある。

鐘楼としておこうか。

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本堂。

これがこの寺の最大の見ものだ。

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室町時代末期(1558年)に建てられたという伝承があり、外回りの柱などは無数に虫食いや補修された跡がある。

外回りの柱は面取も大きく、確かに古さを感じさせる。

文化財の看板によれば、室町創建は伝説で実際は江戸前期と考えられるとある。室町時代であればただちに国の重要文化財の指定が必要だが、いまのところ県指定の重要文化財になっている。

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江戸前期とみる根拠はこの向拝の虹梁や外周の中備の装飾であろう。

ただ、かなり補修されつづけている建物であり、正確な年代判定は骨格となる内部の構造を見ないとわからないのではないかと思う。あるいは棟札を見るかだ。

私たちが日常、鎌倉時代だ室町時代だと感心して見学している寺社の多くは「文化財指定の根拠になった創建時代の形に最近修復された建造物」であり、手付かずのまま数百年放置された建造物ではない。

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この本堂のように、学問的な根拠に基づく統一的な改修がまだされていない古建物に出会う機会はめったにないのである。

向拝の木鼻の様式が新しいね!ハイ江戸初期、 という感じではなく、どのパーツが後補のもので、どの材が古いのか、そういう観点で見ていかないといけない。そもそも最初から入母屋屋根だったのかとか、向拝があったのかというところから考えないと。

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向拝柱など風雨が当たりやすい位置にあるため風化が激しくもう何が何やらわからない、土に返る一歩手前という感じだ。

ごくまれに、室町時代の建造物であまり修復されていないものを見ると、木材の表面はこんな感じになっているものがある。

こうした風化の具合や全体的な木割りなど、室町時代だと言われればそうかなとも思ってしまう、そんな雰囲気の建物なのだ。

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屋根はもう何十年も放置されているようで、一面に植物が生えている。

近いうちに吹き替えが必要だろう。

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境内にあった鎮守社。

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宝庫。

この寺には鎌倉時代の国重文の仏像があるようだ。この中に収蔵されているのではないかと思う。

(2003年05月01日訪問)

日本の伝統木造建築: その空間と構法

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