防府天満宮

日本三天満宮のひとつ。

(山口県防府市松崎町)

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実は先ほどの禅昌寺で帰り際に石畳の段差で蹴つまずいて、カメラを守ろうとして変な姿勢で転倒し左肩を脱臼(?)した・・・。きょうは大きな寺社ばかりだったので、疲れが出たのだろう。カメラが無事だったのは不幸中の幸いだ。

右手だけで運転し何とか防府市まで来たものの、また大きな神社である。気力を振り絞って境内へ向かう。

参道は集合ビルのスナックなどがあり、かつて寺社の門前に歓楽街があった時代を思わせる風情が残る。

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一の鳥居の横にあった四つ脚の石灯籠。

旅の2日目に花岡八幡宮で見たものと同じではないか。周南地方に特有のものなのだろうか。

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二の鳥居は青銅製。

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二の鳥居からは石段になるが、その途中の石垣の上にもお茶屋のしもた屋っぽい家がある。

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石段街は途中から社坊街になる。

花岡八幡宮にも参道に社坊街跡があり、よく似た印象だ。いずれも神仏混淆の名残である。明治維新以前には9つの社坊があったという。

こちらは大専坊。

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こちらは円楽坊跡。

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円楽坊跡は芳松庵という茶店になっている。なかなかに風情のある茶店だ。

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石段を登り切ると、楼門が見えてくる。

左右に回廊を巡らせていて、見ようによっては楼拝殿の一種とも見えなくはない。

防府天満宮に伝わる絹本著色松崎天神縁起(1311)という絵巻物があり当時の社殿の様子が描かれている。三間一戸の二重門風の拝殿から石の間を経て本殿が接続している絵で、その様子はむしろ現在の花岡八幡宮の構成に似ている。

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現在の防府八幡宮のこの重層の建築は、回廊に接続した一間一戸楼門というべき構成で、この門を通過した先に拝殿があるので古絵図とは異なっている。

防府天満宮の社殿は度重なる火災で失われて、現在の社殿は昭和38年(1963)に再建されたものだ。焼失前もこんな形だったのだろう。

だが何はともあれ、鎌倉時代にはすでに楼拝殿の型式が存在していた証拠がこの神社の絵巻物にあるのだ。

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楼門は一間一戸で、左右の翼廊部分に随身(ずいじん)を祀る。つまり随身門である。

こちらは右側。

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こちらは左側。

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この重層建築が拝殿でないことは、中を通行して境内へ入れることからも明白だ。

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回廊の中へ入ると正面に入母屋平入りの拝殿がある。

回廊は護符売り場や社務所とつながって完全に閉じているため、ここからは本殿は見えない。

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左右に軽量鉄骨の庇があるのがとっても昭和な感じ。

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あとで外をひと回りして裏側から本殿を見てみた。

本殿も入母屋平入りの構造だった。

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楼門のすぐ裏にあった六角堂型のおみくじ自販機。

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1回50円となっているが、メカニカルな造りではなく、単におさい銭箱に所定金額を入れてみくじを取るようだ。50円硬貨でも10円硬貨5枚でもよさそうだが、100円を入れてもおつりが出ないことはこの外観からも間違いない。

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回廊の外側にある建物を見ていこう。

このあたりで急に天候が荒れてきて、雨が降ってきた。左手はほとんど使えないし、傘はないしで、半泣きの状態での参詣となってきた。

神楽殿と思われる建物と、謎の竜宮型灯籠。

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境内の崖のきわに建つ春風楼という建物。案内板には「通夜堂」とあるが、当サイトではこのような建物を「観月殿」と呼んでいる。

内部は絵馬殿になっていた。

もともと五重塔を建てようと資材の準備を始めたが、資金不足でこの建物になったというような説明が書かれていた。

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春風楼のとなりには素敵な土産物売り場があった。これもすごく昭和っぽい建物だ。

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社務所。

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本殿のまわにある末社群。

手前にある土蔵は貞宮といって、明治天皇の第十皇女の貞宮内親王の遺品を祀っているという。

すごく奉安殿っぽい建物だが、奉安殿ではないようだ。

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えげつない形の電話ボックス。

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袴腰鼓楼。

垢抜けない感じの建築だ。

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宝物館。

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帰路も肩の痛みに耐えながら石段を降りていく。こんな調子で家まで帰り着けるのだろうか・・・。

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参道の先に茶色いビルディングが見える。

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天満屋という4階建ての土産物屋だった。

屋上屋の塔屋がドームになっていて、あえていえばアールデコっぽい建物。昭和のデパート建築としてかなり貴重な存在ではないかと思われる。

(2003年09月06日訪問)