曲輪稚蚕共同飼育所

昭和7年に造られたごく初期の稚蚕共同飼育所。

(埼玉県東松山市下野本)

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新江川の中流域の台地の崖下に野本という地区があり、そこに曲輪集会所という公民館がある。

この公民館の建物はもと養蚕の施設で、「曲輪(くるわ)稚蚕共同飼育所」と呼ばれていた。カイコが卵から孵ってから2齢の終わりまでを専用に飼育する建物である。

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その外観から古い建物であることはわかるが、見ただけでは即座にこれが稚蚕飼育所だとは気付きにくい。2階部分があるので、村役場とか郵便局か何かか?とまず考えてしまう。

だがこうしたフォーマットの稚蚕飼育所が昭和初期には造られたのだ。

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上の図は『稚蠶(ちさん)共同飼育所ニ(かん)スル調査(農林省蠶絲局)』(以後『關スル調査』と略す)という報告書に掲載されている栃木県の飼育所だが、ほぼ曲輪稚蚕共同飼育所と同じ設計になっている。

このように飼育室の外周に廊下を設置し、飼育室が直接外部に開放されないタイプの飼育所を私は「回廊型」と呼んでいる。以前に紹介した、愛媛県にある西山田稚蚕共同飼育所がこのタイプである。

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西山田の飼育所は聞き込みでは昭和11年に造られたといわれているがはっきりとはしない。

対してこの曲輪稚蚕共同飼育所は建築に際して作成した書類などが県の文書館に残っていて、昭和7年に建設されたこと、開設に至る状況が正確にわかっている貴重な建物だ。

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昭和5年に農林省は稚蚕飼育所の普及計画「農林省令第一號稚蠶共同飼育所設置奬勵規則」を発布する。建築費に対して県と国が50%の補助をして、年間150ヶ所を採択。これを10年間続けて全国に1,500ヶ所の飼育所を作るという計画である。省令1号というくらい重要な計画だった。

『關スル調査』はその年次報告書なのだが、曲輪稚蚕共同飼育所はその2巻(昭和8年刊)に掲載されているのが確認できる。昭和7年までに埼玉県に造られた飼育所はわずか6ヶ所なので極めて初期の飼育所なのである。

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平成末に地域の有志や建築家がこの飼育所の調査をして国登録有形文化財への登録を目指したが、建物の所有権者が拡散していて、申請に必要な権利者すべての合意確認できなかった。そのため制度上、文化財として申請することができなかったという。

いまさら95年も前の組合員の子孫を調べるなど不可能なのだ。組合解散時に自治会や地権者に建物の権利を譲渡するなりの処理をしていなかったのかもしれない。

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さて、養蚕の技術史上で特に重要なものを挙げるとすれば、①パスツールによる蚕病の解明、②外山亀太郎による一代交配の蚕への応用、③風穴利用などによる蚕の孵化日の制御、④条桑育という給餌作業の効率化、⑤稚蚕共同飼育所での共同飼育があるだろう。

現在、世界文化遺産などで養蚕技術の産業遺産にもスポットが当たるようになったが、それは主に明治初期の遺産で、⑤は時代が下るためほぼ無視されているというのが実情だ。

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だが、私は稚蚕共同飼育は養蚕技術史の上で絶対に看過できない存在だと考え、これまで積極的に飼育所を見て回ってきた

当サイトは、たぶん現時点で国内に存在する唯一の稚蚕飼育所情報サイトだし、過去に同様のジャンルの個人サイトが存在したことも知らない。これほど透明化されてしまっているジャンルって他にはあまり無いのじゃないだろうか。

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今回、下野本の自治会にお願いをして建物の内部を見せていただいた。さらに平成に行なわれた調査資料も見せていただき、記事ではその一部を引用させてもらっている。

こちらが、現時点での飼育所の平面図。飼育室が3部屋、東側に剉桑室(ざそうしつ)、剉桑室の地下が貯桑場(ちょそうば)、剉桑室の2階が当直室になっている。現在、トイレは北廊下の角にあり、これは当初のままの可能性がある。その南側に小便所とあるのは後補。

こうした廊下に囲まれた飼育室の設計は農林省作成の『關スル調査』1号巻末に推奨例として図面が示されている。

当サイトではこの農林省推奨プランと競進社模範蚕室との類似性を指摘している。

従来の日本の養蚕農家はいわゆる田の字の間取りで、部屋の外周に廊下を持たない。寺院の客殿や武家の御殿建築には外廊下を持つものもあるが、稚蚕飼育の建物として回廊を持つ設計が示されたのは唐突であり、競進社模範蚕室がこのプランの起源ではないかと想像するのである。また、同時にこれは終戦後に誕生する埼玉式稚蚕飼育所の起源でもあると考えている。

曲輪稚蚕共同飼育所の建設を主導したのはこの地域の豪農、杉浦清助だった。彼は東京農工大(当時は東京高等蚕糸学校?)を出た篤農家で、また杉浦家の分家の婿に競進社で学んだ人物もいて、2人の知識を合わせこの飼育所を計画した。当然、競進社模範蚕室の構造も詳しく学んでいただろう。

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棟上げの写真が残されている。

下の列の左から4人目、ネクタイをした人物が杉浦清助だという。

ここでやや想像も含めて埼玉県の養蚕技術史を俯瞰すると、次のようなつながりとなる。

・高山長五郎が高山社を創設(明治6) 
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・長五郎の実弟、木村九蔵(くぞう)が競進社を創設(明治10)
 ↓
・九蔵、イタリア視察(明治22)
 ↓
・九蔵、イタリアの蚕室をモデルにして競進社模範蚕室を建設(明治27)
 ↓
・「農林省令第一號稚蠶共同飼育所設置奬勵規則」(昭和5)
 ↓
・杉浦清助が中心となり曲輪稚蚕共同飼育所を設立(昭和7)
 ↓
・埼玉県蚕業試験場の河野幹雄、埼玉式稚蚕飼育所を考案(昭和27)

つまり曲輪稚蚕共同飼育所は、埼玉県の養蚕技術史を語る上で重要な遺産なのだ。

『關スル調査』は昭和7年1号から昭和12年5号までの刊行が確認できる。各年150件が採択されたとすると少なくとも700~800ヶ所の飼育所が戦前に建てられたと考えられるが、現存する建物はわずかしか見つかっていない。

よって可能な限り丁寧に建物を観ていきたいと思う。

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玄関を入った中は通り土間になっていて、左手に上がり(かまち)、7.5畳の広間になっている。

その奥にガラスの引き違い戸があり、奥に4.5畳の炊事場がある。

この緑の絨毯の部分はもと剉桑室であろう。

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ガラス戸は後補の感があるので、本来は剉桑室はひと続きの12畳あったと考えられる。

だが、昭和30年代以降の稚蚕飼育所の作業を考えると、挫桑場が12畳では狭く感じる。

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飼育室への入口はこの剉桑室に開口している。

これは南廊下への入口。

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南廊下の外側は板戸、室内側は障子になっている。

掃き出し窓などはないので廊下から直接外部に出入りすることはできない。後の稚蚕飼育所では蚕を出荷するための広く効率的な開口部が設けられるが、回廊式飼育所ではまだそのような導線は存在していない。

南西角から見た南廊下。

西廊下には男性用トイレがあるが、これは後補であろう。

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窓から蚕を出荷した可能性もゼロではないが、外側からは高さがあり受け渡しはやりにくいと思う。

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窓の下に地窓みたいなものがあり、現在はふさがれている。

これは換気口ではないかと思われる。

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続いて、北廊下への入口。

現在は炊事室となっている部屋につながっている。

この時代の飼育所は、公民館も兼ねていたようなので水周りは元々ここにあったのだろう。

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北廊下も南廊下と同じ。

飼育室の3室に対して、窓と地窓が1つづつある。

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北廊下の北西角はトイレになっている。

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飼育室は3部屋あるが、途中の戸を取り外すと1部屋の大広間になる。

各部屋の中央には炉が切ってあるとのこと。そのあたりは金屋稚蚕飼育所を見てもらえばイメージがつかみやすいと思う。

現在は1部屋で使われているが、飼育時には3部屋に区切られて使われたと思う。

カイコの飼育では成長とともに飼育面積を増やしていくが、初日などは飼育面積が少ないから1部屋だけ暖房すればいいからである。

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カイコの飼育にとって重要なのが換気。

稚蚕の飼育にはある程度の湿度が必要だが、湿度が高すぎれば蚕病の発生にもつながる。

中央の炉には炭を焚いて室温を上昇させるとともに、上昇気流を利用して天窓から淀んだ空気を排出するようにしていた。

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天窓は南側と北側に1つづつある。床の中央の炉で上昇気流を造り、それを左右に分割して排出することで室内全体の空気の循環を計ったのだろう。

この天窓の位置も『關スル調査』で指示されている。

中央に換気扇が設置されているのは当初からではなく、後補だと考える。電気扇風機が使えない時代だったから、天窓配置を工夫して空気の循環を計ったのだ。

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天窓は開け閉めできる。

室温を監視しながら開閉したのだろう。

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外廊下を外部からみたところ。

窓、吐き出しのほか、基礎にも金網付きの換気口がある。

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床下を覗いてみたら意外に複雑な構造だ。

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こちらは調査した際の基礎の構造図。

3つある長方形の槽のような部分が炉である。

鉄筋コンクリート製の布基礎が使われるようになったのは昭和初期とされているので、当時としては最新の設計だったろう。

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通り土間。

幅は1間で、半分が2階への階段になっている。

この階段の下に地下室への降り口がある。

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地下室への階段の正面には勝手口があるので、地下に桑を運び入れるときは玄関からではなく、この勝手口から出入りしただろう。

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また地下室から桑を運び出すときも階段の横は狭すぎるので、現在の炊事場のところの階段を上がったはずだ。

それが、炊事場部分も過去には剉桑室だったと考える根拠だ。

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地下室への階段は散らかっていたので入らせてもらえなかったが、換気口から充分に観察できた。

地下水が溜まってしまうことがあるようなことを言っていたが、見た限りカラッとしている。

地下室は気温が低くなるため、収穫した桑がしなびるのを防ぐ天然の冷蔵庫なのである。

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続いて、宿直室へ上がらせてもらった。

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2階は階段室が畳3畳と板の間の回廊。

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宿直室は畳8畳と、板の間の回廊。

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回廊部分にも鴨居があるので、障子が巡っていたのだ。

この狭い廊下はなんのためだったのか。

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昭和10年の大日本蚕糸会による表彰状がある。

「大正五年創設以来協同一致蠶絲業(さいんしぎょう)ノ改良發展(はってん)ニ努メ團軆(だんたい)員相互ノ利益ヲ增進シタル其成績顯著ニシテ(まこと)ニ他ノ模範トナスニ足ル 仍テ(よって)本會蠶絲業團軆表彰規程ニ()リ表彰旗ヲ贈與(ぞうよ)(これ)ヲ表彰ス」

とある。

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そのときに贈与された表彰旗がきれいに保存されていた。

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旗が治められていた箱には養蚕の護符も一緒に保管されていた。

息障院と箭弓稲荷神社のもの。

どちらも大きな寺社だけど今でも護符を出しているのかな・・・いつか確認しよう。

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組合創立40周年記念で配られた温度計。

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2階で見逃してはいけないのが北側の納戸。

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この納戸の奥は壁がなく、そのまま小屋裏が丸見えになっているのだ。

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小屋組みはトラス。興味深いのは部屋の両端の天窓にはダクトがつながっていて、中央に暖気を寄せる構造になっていること。

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建築時の設計図を見ると、ダクトは連結して換気塔が屋根の上に出ていたようだ。

屋根の上の換気塔は雨仕舞いが悪いので、いずれかの時点で撤去されて屋根を葺き替えて現在の形にしたのだろう。

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天井換気扇の部分にも四角いダクトがある。

この小屋裏を見られたことが埼玉式稚蚕飼育所の理解にもつながった。

旧曲輪稚蚕共同飼育所/曲輪集会所は埼玉式稚蚕飼育所につながる養蚕技術の進化を埋める上で重要な遺産であり、全国に造られた初期稚蚕飼育所の構造を伝える貴重な建築だ。現在のような自治会の自助ではなく早急な手厚い保全が必要だと思う。

国登録有形文化財の指定では役不足で、国重文でいいのではとさえ思ってしまう。

中を見せていただいた下野本自治会のみなさま、ありがとうとざいました。

(2025年11月30日訪問)